【不屈の田中正造伝: 4 江刺への旅立ち】

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田中正造が新天地をもとめて北の果ての江刺県閉伊郡遠野町へ旅だったのは明治3年の事であった。同行の友人と15日もの厳しい旅をしてやっと江刺町へ到着した時に、意外な情報が入ってきた。彼らが頼みとしていた下野出身の知事も国府大参事も数日前に転任してしまったというのである。仕官の目算がはずれ、有り金もすべて旅費につぎ込んで帰るに帰れなくなっていた田中正造は、途方に暮れてしまった。
しかし、同行の友人が官職につけた事で、彼もまた下級官史となる事が叶い、山間の辺地鹿角への転任が決まった。田中正造は、こおどりして喜び、設立まもない花輪支庁より任地へと向かった。
到着した鹿角は悲惨な極貧村であった。相次ぐ冷害で村人はほとんど餓死寸前の状態にあった。北の国では維新の混乱が未だに続いており、敗軍の残党が山賊化して村々を襲ったのも農民を苦しめる原因になっていた。田中正造の正義感が、ふたたび燃えたぎった。
田中正造はただちに木村支庁長に掛合った。農民あっての政治である事を必死に訴えついに大量の米を秋田県より買い付け農民に配給することに成功した。各地で大量の餓死が報告されたにもかかわらず、とりあえず鹿角では餓死者無しという成果をあげた。これより田中正造と木村支庁長は、深い信頼で結ばれた友人となった。
明治3年1月8日の晩の事、花輪の田中正造の家に、すぐ近くに住む木村支庁長の屋敷の使用人が、あわてふためいて飛び込んできた。聞けば屋敷で暴漢に襲われて木村支庁長が重体だという。田中正造は、医者や警官の手はずを使用人に言いつけると雪の中を木村支庁長の屋敷へ走った。虫のいきの木村支庁長は、田中正造の腕の中で後を頼むと、か細く言うと絶命した。
大規模な捜索にも係わらず犯人は捕まらなかった。そして二ヶ月が過ぎたある日、田中正造の運命を変える大事件が起きた。その日、突然訪れた警官により、田中正造は木村支庁長殺害の冤罪で逮捕されたのである。
無実の証人もいれば、殺害の証拠もない。どう考えても誤認逮捕であるからすぐに解放されるであろうと軽く考えていた田中正造に、またもや、どうにもならない強大な権力の罠が待ち伏せしていた。
取調は、まさに調べるなどというなま易しいものではなかった。犯行の事実を認めよと迫るばかりで田中正造が証拠について口に出すたびに、逆らうかとばかりに鞭を打つというものであった。田中正造は悲鳴を上げながらもひたすら無実を叫ぶ以外に無かった。
やがて江差に移され、本格的な審理が行われた。旧時代の吟味に当たる裁判であった。やっと証人を呼び筋立てて無実を証明出来ると安堵していた田中正造に現実は厳しかった。江差での審理とは、三角に尖った角材を並べた上に田中正造をすわらせ、その膝の上に石を乗せ、自白を迫るというただの拷問だったのである。旧時代の野蛮な慣習が、今でも残っていたのである。
幾度となく気を失いながらも、熱血の男田中正造は決して屈服することは無かった。この種の拷問で屈服しない人間はほとんどいないという話であるから、田中正造は、かなりの強靭な心臓の持ち主であった。拷問の効果が無いまま、田中正造は牢に戻された。
季節が回り、厳寒の地に冬が訪れても田中正造は獄舎につながれたままであった。同室の囚人が4人、相次いで凍死した。田中正造は赤痢で死んだ囚人の衣服を貰い受けて寒さをしのいだ。どうにか冬を乗り越えた3月、江差県は廃止され、新設の岩手県の県庁、盛岡へ移送される事になった。
盛岡での監獄生活は、田中正造に取っては、予想外のものであった。岩手県令島惟精は自ら幕末勤王論者として入獄の経験を持ち、囚人達には出来る限りの待遇を行っていたのであった。獄舎は清潔で日常生活には不自由のない配慮がなされていた。きびしい制限のあった外部からの差し入れも、ここでは全く自由であった。しかも、やがて、当時の監獄では信じられない厚遇である畳が敷かれ、田中正造の身元が確かな事もあって、およそ囚人とは思えない待遇となった。しかし、それでもなお三年間、無実の声は県令にまで届かなかった。田中正造に対する嫌疑があまりものいい加減な物であった事を知った県令島惟精の指示で緻密な捜査が再開されたのは明治7年4月になってからの事であった。再開されてほどなく田中正造の無実は完全に証明され無罪放免された。指導者が正しければ正義は行われる。田中正造は、またしても貴重な経験を自らの体で学びとったのである。
獄中で政治経済を学び生来のどもりを克服した田中正造にとって、盛岡での監獄生活は、後の人生に大きな影響を与えた。こうして北の果てで囚人生活を送った田中正造は、またもや振出しに戻り、故郷の栃木県佐野の小中村に帰った。

 

 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
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