慶応4年、田中正造(当時兼三郎)は主家の旗本六角家に造反した罪で投獄された。田中正造は幼い主君を補佐し六角家を私物化していた筆頭用人林三郎兵衛を六角一族に直訴したのだった。林三郎兵衛の解任と幼君の隠居を提案したもので、領民を始め良識ある家人からも支持されていた提案であった。
しかし事実を知った林三郎兵衛は激高し刺客を送り込んだ。暗殺が失敗に終わると、屋敷内で田中正造を拘束し、収賄された幕府役人により不当な吟味を受けさせたのちに狭い独房に閉じこめた。
同情を寄せる家人からの極秘の差し入れで毒殺の危機を免れながら命をつないだ田中正造が、突然再吟味の場に引き出されたのは、およそ10ヶ月の入牢生活の後の事であった。
吟味役の役人は、以前の役人と違い、薩摩言葉の若者であった。
「田中兼三郎、身分をわきまえず願書を提出したことは、不届きである。仕置きすべき所ではあるが、温情を持って、領内追放を申しつける。」
薩摩役人は重々しく沙汰した。しかし打ち沈む正造の耳に、続いて信じられないような声が聞こえてきた。薩摩役人の沙汰は、それだけに終わらなかったのであった。
「林三郎兵衛、時節柄倹約せねばならぬのに私腹を肥やすとは言語道断。長くいとまを取らす。また幼君は隠居し、ご次男が家を継ぐべし。」
なんと、田中正造の願書は、この薩摩の若き名もない役人によってすべて容れられ、田中正造も領地追放という主家への反逆罪としては格別な軽い罪で放免されたのである。田中正造の正論が全面勝利したのであった。
田中正造は釈放された。気づけばすでに時代は明治と改元され武士の世は終わっていた。薩摩言葉の青年役人も維新後の江戸の新しい主から派遣されてきた役人であった。ついに田中正造を必要とする世の中になったのである。
故郷に帰った田中正造は、六角氏の領地をわずかにはずれた隣村に住み私塾を開いた。熱血の田中正造に、しばしの安息が訪れたが、時代は正造に休息を与えなかった。薦める友人があって再度上京したのは、まもなくの事であった。
「江刺へ行ってみないか?あそこは知事はじめ重職に下野の人がいるからいい役職につけるぞ。」
東京での生活で、友人に薦められるままに、田中正造は運を北の果てに求める決心をした。田中正造が自分の名を田中兼三郎から田中正造と変えたのはこの頃であった。強大な太刀打ちすることのできない「権力」の存在を知った田中正造の、新しい旅立ちであった。
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