世良田氏の謎解きに挑戦(9)

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《世良田政義》

このあたりになると、どれほど信用してよいか判断に苦しむようになります。徳川家譜、世良田系図にある六代目世良田政義も、尊卑分脈には存在しない人物です。少々あやふやになりますが『波合記』という古書に後南朝武将の世良田政義の名があるとの事です。ただし各種の断片的な資料を突き合わせると徳川氏創作の可能性は少なく宗家を相続したか否かは別として、実在した事だけは事実のようです。

《世良田義政》

世良田政義の弟に世良田義政という人物がいたことは、複数の記録で明らかです。ところで専ら兄の世良田政義は南朝残党として各地で活躍しました。一方の弟は兄を代行して領地の経営にあたったと想像できます。したがって、世良田政義が地頭なら世良田義政は地頭代として兄弟が一致して世良田氏を相続したと考えられない話ではないと信じます。

《世良田親季》

世良田政義の子に世良田親季という者がありました。徳川家康の系図はこの人物よりメンメンと続いたとされてありました。しかし、比較的徳川氏寄りであるはずの『世良田家嫡子名鑑』にはなぜか打ち死したとあります。そしてこの人物以降の世良田氏に関する記録は客観的な資料としては全く存在していません。このころでは、南朝として足利尊氏に反抗しつづけた世良田氏は、その地頭職をも失い、一族の惣領権でさえ足利一門と変身した岩松氏に移っていました。もはや世良田を支える経済基盤を失った世良田には武家として生きる道は残されていなかったはずです。思うに正統の世良氏は世良田親季の代にて消滅したと言ってよいのではないでしょうか。その世良田親季以降のあやふや度を悪用したのが徳川家康といえます。次回は家康がどのようにして、徳川を名乗ったかという事についてです。

著作:藤田敏夫(禁転載)

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