世良田氏の謎解きに挑戦(8)

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いよいよ南北朝の動乱期の世良田氏について述べることになりました。この頃になると、中心資料は吾妻鏡から太平記にバトンタッチされます。しかし、切り替え時期にわずかな隙間があり、足利氏関連なら難太平記などといった資料に使える物があるのに、新田氏には地方のまゆつば資料しかありません。

《世良田満義》

世良田家時の本来の嫡男は、世良田貞国といいました。その世良田貞国は新田義貞に従軍して戦死した事になっています。もっとも太平記に明記されている訳ではなく、『徳川家譜』や地元の古記録などが根拠ですので、信頼性の問題が残るきらいはあります。さて世良田貞国の戦死により世良田家を継いだのは世良田満氏とする記録もありますが、複数の記録により、実際に世良田家時から世良田家を継いだのは三男の世良田満義であろうと考えられます。長楽寺には、この世良田満義からの寄進状が複数保存されています。
ここで「寄進」について。地元寺院に対する寄進とは、通常土地寄進ではなく、その土地の徴税権の譲渡の事を言います。寺社への寄進のメリットは多種あり一概には言えませんが、領民を従えるのに宗教の威力は権力者にとって利用価値の高いものでした。

  世良田家時___貞国
        |
        |_満氏
        |
        |_満義

新田義貞が挙兵を決意する事件であった鎌倉の徴税使殺害事件は世良田の領地で発生しました。太平記には『中にも新田庄世良田には有徳の者多しとて』と、特別世良田地区は目立って裕福な者が多く住んでいた事を記録しています。鎌倉幕府は新田宗家に対してではなく一族の世良田氏の領地に目をつけたのですから、たぶん当時は新田惣領の中で最も裕福な場所だったのでしょう。しかし新田義貞の挙兵の様子を描いた部分に世良田氏の名前がなぜか出て来ません。裕福な領地を抱える領主であるなら当然新田一族の中でも発言権の強い立場であったはずで、記載されていないのは不自然です。しかし鎌倉突入の兵の中に世良田太郎という名が見えます。稲村ヶ崎を廻り、安東左衛門軍を攻めた記録が唯一あるだけで、さほど重要な地位にあったとは思われません。しかし太郎という名からして満義の事ではなく、長男の貞国だったのでしょうか。私は満義の嫡子の太郎政義の事ではないかと想像してみました。
世良田氏がなぜ重要な役で活躍しなかったのか。たぶんいくさ向きの人物では無いという新田一門の判断があったのではないでしょうか。世良田満義は地元にて留守居したのか新田義貞に従って京の都にいったのかは、記録が少ないのですが、『遠野南部文書』のなかに世良田満義が出陣中のさむらいの世話をしている様子が書かれてあり、従軍していたようです。
さて徳川家譜、世良田系図に共通し、満義の子に政義があり世良田家を相続したとあります。話は一気に室町戦国へと続きます。世良田政義の話は次回。
 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
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