【南風 8】両朝合一
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あわれ南朝

後亀山天皇とは、名ばかりで、すでに歴史の中に埋没しかかっている南朝でした。形ばかりの南朝派は、いまだ周辺にわずかいるものの、彼らとて、それは単に累代南朝に従っていたという心情的南朝派にすぎす、行宮の在処さえ、よく知らぬというありさまでしたから、天皇の生活も困窮をきわめておりました。それでも、輝かしい歴史だけは捨てられずに神器ある所は都という自負心だけは強くもっておりました。
一方、幕府の力はひましに安定して来ており義満の代においては、もはや南朝などは過去の遺物となっておりました。

和平成立

公家にとっては、そのよりどころとする神器の行方は、やはり重大な事でありました。世の中が安定してくると、すぐにこのような原則論を持ち出すやからがいるもので、こうるさい公家の問題は、早々に片付けたいと願う足利義満の命で、忘れ去られた南朝のちいさな砦に、紀伊守護大内義弘がむかいました。
ひさしぶりの中央との接触に有頂天の後亀山天皇の側近たちの積もり積もったうっぷんが、吐き出されます。いわく、南朝は、後醍醐天皇の代より常に正当な皇位継承を続けており、唯一の正しい皇位である。と。
しかし、それが武家政権を安定させた今の政治家にとって、どれほどの意味があるというのでしょう。今の足利義満にとっては、それは公家の内部の少事にすぎなかったのです。
一、三種の神器は、後亀山天皇から後小松天皇に譲位される形式で渡されること。
一、今後皇位は、両朝迭立とすること。
一、国衙領は、すべて大覚寺統のものとすること。
一、長講堂領は、すべて持明院統のものとすること。
和平の条件で、大筋の合意が成立し、ついに、歴史的な南北両朝合一の瞬間がせまってきました。

後亀山天皇入京

噂に高い南朝の天子が京都へ帰って来る。京の都は大騒ぎになりました。どの様な豪華絢爛な行列が見られるのかと都中の人々が、大路にあふれ、この一大イベントは、最高潮をむかえました。
1392年閏10月2日。雨上がりの京の町へ57年ぶりに南朝天子が戻ってきました。先頭を宝物を納めた篭。次を騎馬武者10人。次を天皇の御輿。次に従者3、4人。あとは...、あとはと期待する都の人々の期待を裏切るかのように、絢爛豪華なはずの南朝天皇の入京の行列は、それだけでした。みれば、従者の身なりは疎末で、昨日まで山間を警護していたと思われる武者の姿も汗に汚れ、にわか作りの御輿も、白木の疎末なものでした。都大路の人々は、声もなく、その哀れな天子の行列に涙しながら手を合わせる者が数多くおりました。ちいさな行列は、御所へは迎えられず、そのまま嵯峨大覚寺へと静かに向かったのでした。

南朝消滅

10月5日。三種の神器は、約束通りの儀式など何等おこなわれる事もなく後小松天皇へ授受されました。両朝迭立の約束で東宮となるはずの後亀山の男子にも、いっこうにその段取りの気配もなく、領地の話もなく、さみしい嵯峨野の冬でした。
一方神器を得た後小松天皇は、これで真に正統の天皇として公家内部からも認知され、その後、今上陛下へ到る長い歴史の中で延々とその血脈は保たれるのでした。
著作:藤田敏夫(禁転載)
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