【南風 7】楠木正儀
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お話は、多少前にもどった所から始まります。

和議

足利直義が、南朝帰順してから後、南朝にとっての最大の敵だった高師直が殺害され一時期南北対話ムードが高まった事がありました。1351年2月5日北朝足利直義の名代が賀名生を訪れ、南朝楠木正儀と南北両朝の和平会議が開始されました。
楠木正儀は、楠木正成の次男で、楠木正行の弟でしたが、熱血漢で無鉄砲だった父や兄と違い、理想論でなく現実的な政治駆け引きで南朝の再興を計るべきだという考えをもっておりました。従って、必ずしも足利幕府の諸権限の譲渡までもは要求しない考えでありました。クールで現実的な戦後世代の典型でした。
しかしこだわりの世代、戦前派の北畠親房(またまた登場)は、そうはいきません。彼の理想とするのは、あくまでも天皇親政であり、それは、「とりあえず南朝再興」などといういい加減な妥協の入る余地の無いものでありました。
これでは、憂いを無くすことが最大の目的で和平に応じている足利直義に、南朝の天子の前に屈服せよと言っているような物で、全く容認できる事ではありません。そんな訳で、楠木正儀の最初の和平工作は、味方の強行派を解き伏せられなかったのが最大原因で失敗に終わりました。楠木正儀の努力は、全くむくわれる事がありませんでした。彼は天皇のまわりで、利権をむさぼる有害な貴族達の姿をまざまざと見せられ、こんな事なら、むしろ足利方の大軍に攻撃され、彼らの手から南朝の天子が離れる事の方が、むしろ天皇にとって幸せな事ではないかとさえ思えるようになりました。

楠木正儀の嘆き

さて、南朝再興をかけた激戦、男山攻防が始まりました。南朝の大将として奮戦した楠木正儀でしたが、むなしく劣勢にたたされると、後村上天皇に、ひとまず賀名生にもどられることを上奏しました。しかし、奇跡の援軍に望みを捨て切れない北畠親房らの猛反対にあい断念しなければなりませんでした。
楠木正儀は、悩みました。あのような取り巻きが、南朝の運命をここまでしてしまったのだと。もし、もう少し有能な人材が天皇のそばにいたなら、父の湊川の無念も無かったろうに。また、ここで意に反して父、兄と同じ道をたどっていいのだろうか。忠節を貫いたとして、それが、天子の為になることなのだろうか。
結局、楠木正儀は、援軍をつのるという名目で千早へ帰り、そのまま男山へは戻りませんでした。結局どう努力したところで男山が、敗れることは、間違いない。天皇は命までも奪われることはあるまい。時期がくれば、また頑張れる可能性もある。その時の政治取り引きの為にも南朝の軍備は温存させておくべきだ。現実主義の楠木正儀には、父の死は無駄な死と映っていました。自己満足の忠臣など朝廷の為には、なんの役にもたっていないとさえ思っていました。

正儀向背

1367年。このころでは、すでに足利幕府の政治も安定してきており、いまさら南朝の存在など憂慮するほどの物ではなくなっていました。しかし、北朝には、何としても解決しておきたい大問題がありました。それは、現在北朝の天子の所に神器が無いという現実でした。儀礼を重要視する貴族の世界において、それは重大な事であり今後の混乱の種となることは必至です。いまさらの感のある和平会談が現実の物となったのは、そんな背景があっての事でした。
北朝の佐々木道誉の音頭で行われた和平会議では、南朝の最も重要とする和睦の形について、足利氏が南朝に降参するという形式が欲しいと要求を出しました。この和平会議も、南朝側でその労をつくしたのは楠木正儀でしたが、彼の希望を知ってか知らずか、すでに幻となった天皇親政にあくまでこだわる側近達でした。
結局困窮している南朝にとって最善策と思われた和睦も「降参」などという非現実的な要求に激怒した足利義詮により破談となりました。万策尽きた楠木正儀は、その年足利義詮が、翌年後村上天皇が相次ぎ死亡し、反和睦派の長慶天皇が即位したのを切っかけに、北朝に転向してしまいました。
その後、後亀山天皇の代となり南朝に戻りましたが、まもなく南朝の歴史とともに、さみしく消え去ったのでした。
注:「楠木正儀は、楠木正成の次男」と書きましたところ、多くの方から三男の誤りではないかという指摘のメールをいただいております。
確かに楠木正成には、楠木正行、正儀のほかに、正時という子供がおり、この正時は、楠木正行とともに、四条畷の戦いで戦死しています(「【南風 2】四条畷」をご参照ください)。
しかし楠木正時は、楠木正行の弟であることは記録にありますが、正時と正儀の兄弟の順に触れた記録は、後代の物を除き、存在していません。
そこで私は、次のように理解しました。四条畷において、楠木正行が破れた戦いの描写は、父親の楠木正成が敗れた湊川の戦いに模して描写されているため、楠木正成と相果てた弟の楠木正季にあたる人物の登場が、どうしても必要だったので、たまたま同時に戦死した弟の正時を格好の相手に選んだ。というものです。
楠木正儀は、楠木正行の亡き後の南朝の主役として歴史の一翼を担った人物ですので、いきなり楠木正行の戦死の場面だけに、とってつけたように登場して消えた正時に比べて、その扱いは相続者としての社会認知もあります。当然どちらが兄で弟か区別がつかない場合は、楠木正儀を次男として表現し、楠木正時はその他の弟として末席に扱う方が自然ではないかという発想です。
著作:藤田敏夫(禁転載)
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