虚構の義賊国定忠治伝(9)
1837年(天保8年)国定一家は大きな危機に見舞われました。相変わらず違法の私設賭場を開帳していた国定一家の賭場が関東取締役の手入れにあったのでした。この時賭場を開いていたのは、縄張りの中でも比較的大きな村の世良田(せらだ)村でした。ここは、南北朝の話題でしばしば登場する新田一族の世良田氏の本拠地で、後の徳川氏が先祖の地として手厚い保護を行っていた聖地でもあります。ここでの上がりは国定一家の最大の収入源でした。後の公式記録に、この頃、田部井(ためがい)でも賭場を開いたとあり、その頃、田部井の磯沼の浚渫工事を領主から請け負った名主の西野目宇右衛門という人物が、工事用の小屋と偽って忠次郎と共謀し賭博小屋を作ったとして罰せられた記録があります。義賊伝説としては、この時、浚渫工事の資金を作るために賭場を開いた国定忠治があがった金で工事を行い、村を干ばつから救った、というのがありますが、国定忠治憎しの役人の記録と、庶民の口伝と、どちらが真実なのかは不明です。話が多少前後しましたが、世良田村での捕り物劇で、国定一家の主要メンバーが多数捕縛されました。とくに三ツ木の文蔵が捕まったのは忠次郎には痛手だったようで、何度か奪い返す機会をうかがった後にあきらめて逃走したようです。三ツ木の文蔵は、江戸へ護送後、小塚原で獄門になったという事です。
この時の捕り物でからくも脱出した長岡忠次郎は、その後数年間、全く音信が途絶えます。ほとぼりがさめるまで関西方面に脱出したとする説が、後にまことしやかにささやかれ、後の国定忠治ブームの大半の『縞の合羽に三度笠旅がらす国定忠治』の創作話は、すべてこの時期の忠次郎の逃避行中の出来事という設定になっています。ところで、歴史話なので多少正確にお話させていただくなら、時代劇によく登場する三度笠は大正時代に発明された物ですので、江戸時代の無宿人がかぶっているのは、はなはだ時代考証が間違っています。しかし、あれがないと国定忠治も清水の次郎長も木枯らし紋次郎も、ちっとも面白く無くなってしまいます。
丁度時を同じくして大阪では大塩平八郎の乱が発生した不穏な時勢でした。
田部井の読みは古くは「ためがい」であるという趣旨のご指摘メールをいただき、確認しましたところ、たしかにその通りでしたので修正しました。現在、田部井の地名は「たべい」とあらためられていますが、古くは「ためがい」と呼ばれ、また南北朝期の新田一門田部井氏も太平記では「ためがい」と読む異字で表記されていることもあることから古い読みであることが確認できます。ご指摘いただきました方には心より感謝申し上げます。
記2016.2.2
著作:藤田敏夫(禁転載)
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