虚構の義賊国定忠治伝(10)

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 さて国定忠治こと長岡忠次郎は1837年(天保8年)に子分達が大量逮捕されて以来、1842年(天保13年)までの足どりが完全に途切れています。各地に放浪の旅に出たとする各種の講談話は、映画や舞台に黄門漫遊記のごとく広まりました。創作はともかく、この時期忠次郎が他国に逃避行していたとする考え方は定説になっていますが、私は否定的な見解を持っています。5年間も他国にいては縄張りの温存などは絶対に不可能です。勢力が極端に小さくなったとはいえ、相変わらず赤城山麓の広い地域を縄張りとしておとなしく生活を続けていたろうと思うのです。この間の国定一家の縄張りを別の人物が引き継いだとの記録は、やはり現存していませんので、たまたま赤城近辺が平穏で記録に残すほどの問題が発生していなかっただけなのではと考えました。このころの上州で比較的賭博の盛んだった桐生新町を中心とする無宿人や博徒の調査を行った記録が現存しています。見ると巨大な縄張りを誇示して一家を成している博徒は無く、ほとんどが親分子分の二人だけの一家が、各地区に整然とひと組づつ存在しており、国定一家のような巨大なしかも新興勢力が縄張りを維持するには相当な努力が必要だったはずです。
 1842年(天保13年)、忠次郎が忽然と赤城山に戻ります。戻るという表現が正しいかどうかわかりませんが、久しぶりに記録に残る事件を起こしたという方が正しいかもしれません。つまりその年、忠次郎がふたたび窮地に追い込まれる事件が発生したのです。田部井村に「お辰婆(おたつばばあ)」と愛称されていた国定一家の豪傑女幹部がおりました。その日お辰の家での賭博開帳中に、ふたたび関東取締出役により賭場が急襲されたのです。役人が、その威信をかけての取締りでしたので、総勢なんと300名という大げさな人数でお辰婆の家は取り囲まれました。一説にはこの時、たまたま忠次郎は賭場にいなかったと言われています。いずれにしても捕縛の網をくぐって忠次郎と多くの子分達は辛くも赤城山中に逃れました。
 その当時の関東取締出役というのは当初8名、多い時でさえ15名程度で関八州をすべて管轄しておりました。その下には寄場組合村という地域防犯組織がありました。寄場組合村の寄場惣代は関東取締出役の直属として領国の境を越えて活動する事を許されていました。関東取締出役の地方巡回は八州見回りと呼ばれ当地の組合村がその案内役を勤めました。道案内役は地元の目明かし的存在でしたが、なんとその役は通常地元のやくざ達が任命される事が多くありました。また密告は積極的に推奨しており、報奨金も支払われていました。毒を持って毒を制すという発想ではありましたが、結局はそれが元でこの日本初の広域警察組織は破綻してしまいます。やくざの側から見れば、この案内役のやくざは、仲間を裏切る最も嫌われた存在でした。一般には「二足の草鞋」と呼ばれていました。
 話を戻して、忠次郎が極秘で開帳したお辰婆の賭場が急襲されたという事は、内部に密告者がいたことになります。赤城山に集まった国定一家は、その日賭場に顔を出さなかった子分の板割の浅太郎を疑いました。浅太郎の叔父は、八寸の勘助という、やはり忠次郎とは苦楽を共にした子分でしたが、この勘助も、当日賭場にはいませんでした。元二足の草鞋の経験を持つ勘助が密告の張本人だろうという事で結論は一致しました。共謀したと疑われた浅太郎は、呼び出されますが当然否定します。しかし一同は許さず、無実の証に裏切り者の勘助の首を取ってこいと強要します。このあたりは完全に講談になってしまい申し訳ありませんが、まあ史実ではないにしろ、あまりに有名な話なもので、ご紹介する事にしました。お許し下さい。
 結局、浅太郎は、叔父の勘助を無実と知りながら泣く泣く討ち、自分の潔白を証明します。多くの義賊伝説では、忠次郎は止めたとなっていますが、たぶんそれまでの忠次郎の行動からして、この勘助殺害事件の時、先頭に立って実行したのは、忠次郎自身だったろうと容易に想像できます。それほどに忠次郎は裏切りを徹底して許さない性格でした。勘助には太郎吉という幼児がおりました。この子を背負い赤城に戻った浅太郎の話が、あの東海林太郎(しょうじたろう)の有名な『赤城の子守歌』です。しかし、現実は厳しい。勘助、太郎吉は1842年の同日に死亡したとする正しい記録が現存しています。つまり残酷にも国定一家は深夜に勘助宅を襲った際、隣で何も知らず寝入っていた太郎吉をも無惨に切り殺していたわけです。
 余談ですが、何と戦後世代でテレビっ子と呼ばれた時代の私なのに、歌手の東海林太郎を良く覚えております。直立不動で丸いメガネをかけて歌う『赤城の子守歌』は、よくモノマネの対象になったものでした。
 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
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