長岡忠次郎が、どうして現在国定忠治と呼ばれているかと申しますと、当時の記録では忠次郎を忠治郎または忠次、忠治と、必ずしも正確には記録されていませんでした。忠次郎自身の自署による文書は現存していませんので、一般に忠次郎は文盲だったのではないかと言われています。ただし、講談の中の国定忠治は高い教養を持って何度も名文の手紙を書いており、虚像と実像のギャップは埋められないほど開いています。もちろん忠次郎のとりまきに達筆な者がいたとは考えにくく、口伝書取による記録に、一般呼称だった「国定村の忠次親分」が本名のごとく記録され忠次も忠治と誤記されても少しもおかしな事ではありません。ここでは、史実を述べようとする際に長岡忠次郎、伝説の男として扱う時に国定忠治と表現しています。 |