虚構の義賊国定忠治伝(8)

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 長岡忠次郎が、どうして現在国定忠治と呼ばれているかと申しますと、当時の記録では忠次郎を忠治郎または忠次、忠治と、必ずしも正確には記録されていませんでした。忠次郎自身の自署による文書は現存していませんので、一般に忠次郎は文盲だったのではないかと言われています。ただし、講談の中の国定忠治は高い教養を持って何度も名文の手紙を書いており、虚像と実像のギャップは埋められないほど開いています。もちろん忠次郎のとりまきに達筆な者がいたとは考えにくく、口伝書取による記録に、一般呼称だった「国定村の忠次親分」が本名のごとく記録され忠次も忠治と誤記されても少しもおかしな事ではありません。ここでは、史実を述べようとする際に長岡忠次郎、伝説の男として扱う時に国定忠治と表現しています。
 さて1836年(天保7年)、殺人罪で指名手配されてから一年、忠次郎は、はや27歳になっていました。逃走中信州にも拠点を持った忠次郎が信州で兄弟の契りを結んだ茅場の長兵衛が中野の原七に殺害されるという事件が発生しました。凶作で各地に一揆やうちこわしが発生し、犯罪も多発した不穏な年でした。国定一家をあげて信州へ仇討ちに向かった忠次郎は犯罪多発から取締の厳しくなった大戸関所(現在の群馬県吾妻郡吾妻町)を強引に通過します。関所の役人と言っても軍隊組織が常駐していたわけではなく、20人からのヤクザが鉄砲や刀や槍を持って通った場合、関所も無力でした。信州に到着してみると、中野の原七はすでに役人に捕らわれていて、忠次郎達はむなしく引き上げる結果になりました。なんと帰路でも忠次郎は堂々と関所破りをしたという記録が残っています。
 やがて、この時の関所破りが忠次郎の運命に大きく影響をあたえます。
 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
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