虚構の義賊国定忠治伝(7)
さて国定忠治の赤城ごもりですが、いったいどんな生活だったのでしょうか。赤城山中に潜んだと言うと、現代人の感覚からみたら、険しい山中に洞穴でも見つけて暮らしたのではないかという惨めな姿を想像してしまいます。実際にそのような発想から赤城の山腹には国定忠治の隠れ場所という伝説地がいくつもあります。しかし実は当時の赤城山周辺はまだ開拓が進んでなくすそ野が広大な森林となって広がっておりまして、私の考えでは国定忠治はふもとの村に近いその森林の中の平地に家を建てて隠れていたのではないかと思います。役人から急襲されても裏山に逃げ込めばそこから先はどこまでも続く原野ですから、ほとんど捕まらずにすみます。通常は縄張りの村で生活し、危なくなると森に潜むという繰り返しだったのでは無いかと私は想像しております。
赤城山の忠次郎の元には噂を聞きつけた子分達が続々と集まって来ました。日光の円蔵、八寸の才市、三ツ木の文蔵、下植木の浅次郎、山王の民五郎、神崎の友五郎、新川の秀吉、境川の安五郎などなど。赤城山に潜伏するようになってからというもの、忠次郎の大親分との評判は全国に響きわたりました。
さて相変わらず賭博場を開帳する忠次郎は、縄張り争いの喧嘩の毎日でした。そのなかも、玉村の京蔵との縄張り争いはし烈なもので、最終的に玉村の京蔵は縄張りを捨てて逃走し、忠次郎も山王の民五郎を後に仇討ちで失っています。
そんなすさんだ生活を繰り返す忠次郎にも色艶話はありました。忠次郎の正妻は、講談などで誤って伝えられている物もありますが、正しくは「お鶴」という女性です。俗説にすぎませんが、名門桐生氏の本家から嫁したという事ですから、本当なら忠次郎の家も当時かなり格式が高かった事だろうと想像できます。すでにヤクザの道に入っていた忠次郎の所へ嫁がせる事に親は大反対だったそうですが、押し切って嫁いだのでしょう。ただし平凡な夫婦としての生活は長く続かず、愛人を作ったあげく犯罪人として逃亡した忠次郎に、しゅうとを抱えての大変な生活だった事でしょう。その忠次郎の愛人には伝えられているだけでも「つま」「お町」「お徳」「貞」がおります。どちらも上州女特有の気性の荒い女性だったと伝わっています。「つま」は信州の女性でした。忠次郎の逃走時代の愛人ですので、きっと劇的な出会いと別れがあったことでしょう。なんと、この「つま」の子孫が今でもいらっしゃるという事です。「お町」は、百々村の親分をしていた当時の愛人で、相当な艶っぽい美女だったと伝わっております。「お徳」は晩年の愛人でした。「貞」が愛人であったとする話は、正確には伝わってはいませんが、晩年のわずかな期間生活していたようで、のちに野州(栃木県)に移り住んだと言われています。
あまり講談すぎる逸話は書きませんが、女性にすこぶる人気があった事は確かな事のようです。
著作:藤田敏夫(禁転載)
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