虚構の義賊国定忠治伝(6)
栃木県足利市(つまり私の地元)には、田崎草雲という江戸時代に活躍した画家がおりました。
別の場所でご紹介した国内初の古墳の学術発掘が行われた足利公園の一角に、草雲美術館という建物があり、この名画家の作品が常設展示されています。足利公園近辺は、市の中心部からわずかに西に外れた場所にあり、周囲はひっそりと静まり返っています。この田崎草雲の作品の中に一風変わったものがあります。なんと国定忠治の肖像画が残されているのです。田崎草雲は、一度だけ国定忠治と偶然出会った事があり、その時の印象を元に描いたもので、これが現存する国定忠治の唯一の肖像画となっています。田崎草雲の描く国定忠治は大きな目をむいた無頼漢でなかなか雰囲気が出ています。
さてなぜ忠次郎が指名手配の手を逃れて信州へ逃走したかと申しますと理由は当時の警察組織にあります。当時の上州は譜代、旗本、天領、寺社領が細分して領有していました。これは古来よりこの地方が関東、信州、越後の勢力がぶつかる戦場として陣取り合戦の舞台になってきた事に関係があります。江戸の防波堤の上州は、信頼のおける家臣に細分して管理させるというのが徳川政権の方策でした。しかし、それにより細分化された領地は独自に治安維持を行う力がなく、ほとんど無法状態に置かれました。しかも小さいとはいえ、一国ですので、国境を越えれば自治権はおよびません。一歩村を出ればそこは他国という状態がやくざの台頭を許したといえると思います。この無法地帯を打開するための広域警察組織が関東取締出役(通称、八州回り)でした。テレビの時代劇ドラマで、よくやってますよね。ところが、この関八州に信州は含まれませんでしたので、当時上州の悪党達は犯罪を犯し指名手配されると、関所をくぐりぬけて信州へ逃走したのです。
もちろん信州にいれば安全という訳ではなく犯罪者の引き渡しを要請されれば信州でも彼ら犯罪者の取締は行われました。しかしそこは行政の堅い部分で、なかなか実効は上がらず、そこを見すかすように長岡忠次郎は信州でも賭場あらしといった暴走を繰り返しました。忠次郎が草鞋を脱いだのは松本の勝太の所でした。勝太も、この乱暴な客人には手を焼いたようで、ほどなく体よく追い出されてしまいます。
上州に戻った忠次郎は赤城山に潜伏します。当時赤城山は犯罪人の格好の隠れ場所でした。彼らは普段赤城の山中に潜み、ときどきふもとの村を襲っては食料や金品を奪い、近郷の農村からは恐れられていました。その中でも特に婦女子に対する暴行が目立ちその対策にはどの村でも最も苦慮していたようです。当時、赤城山中には、かなりの数の山賊が潜んでいたようです。忠次郎も、そんな山賊達の道をたどり赤城山に入りました。経済的な基盤を失った忠次郎が、ふもとの村々で、どの様な行為をしていたかは、容易に想像できます。
当時の国定忠治の伝承で、信ずるに足るものはありません。徒党を組んで村を襲い処女は犯され破談になり、人妻は節を失って泣いた。という乱暴狼藉の限りを尽くしたように語られているものもあれば、国定忠治の名声に恐れをなした旧来の山賊達が影を潜めたために、かえって安全になったふもとの村では、以後夜も安心して雨戸を明けたまま寝られるようになった。という義賊伝説もあります。村人にどのように扱われていたかは不明でも、その後の忠次郎の行動は、やはり相変わらずの切った張ったのやくざの典型でした。
著作:藤田敏夫(禁転載)
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