虚構の義賊国定忠治伝(5)

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 私は子供の頃、ひょんな事からテキヤの親分と友達になった事があります。まあ友達と呼ぶにはかなりの年輩でしたが、この人がなかなかのインテリのテキヤでヤクザ史などという講義を露天でやきとりを焼きながら延々とやってくれました。楽しい話でしたので今でもそのいくらかを覚えています。たとえばヤクザの世界は、明確に4種類に別れていて現在迷惑組織を作って活動しているのは、そのうちの一種にしかすぎないという話やテキヤもヤクザの一種ではあるけれど暴力団と混同している人が多いのには困ったものだと真剣に話してくれました。テキヤ(露天商)は、バクト(賭博師)に次いで最下層のヤクザにあたるそうで、タンカを切る時の口上もかなり遠慮した物になるそうです。あの映画に出てくるような、堂々と家の中に入って行って、「おひかえなすって・・・」といきなり切り出すのはよほどの大親分の場合で、通常テキヤがタンカを切るときは、相手の家の中には入らず、軒下のあたりで「軒下三寸借り受けまして・・・」と切り出すのだそうです。露天商は明治新政府の元でも合法でしたので、好んで違法組織になる必要はありませんでしたから暴力団と呼ばれる組織に進む事はなかったのだそうです。しかし、私設賭博を厳しく禁じられたバクトの多くは迷惑組織に変身するか一部のバクトは権力と結んで公営賭博場の経営に当たりました。もちろん江戸時代といえども私設ギャンブルは違法行為でした。
1834年といえば天保の飢饉で各地にうちこわしが発生し江戸には大火が発生した年でした。いっぱしの百々村の親分きどりでいた忠次郎は、この飢餓を救うために私財をなげうって窮民を救いました。おかげで縄張り内ではひとりの餓死者も出さずに済んだという事です。これが後の世の義賊伝説の元になった話です。忠次郎の真意がどうであったかは知る由もありませんが、たとえ博徒と言えど、一家を構える若きリーダーとしては、ある種の縄張り保護の義務感を感じたとしても何等不思議な事ではありません。
当時の国定忠治を著書『赤城録』で克明に綴った羽倉簡堂という人物がおりました。羽倉簡堂は各地で代官を勤めた有能な役人で、直接会った事はありませんでしたが、国定忠治の時代を生きた人で、同僚には係わった知人を多く持ち、裁判記録を入手できる立場にありました。国定忠治とは全く立場を逆にする人物でしたが、なぜか国定忠治にほれこみ、その残した著書は現在でも国定忠治研究の一級資料となっています。忠治郎が救民活動を行ったとする話はこの『赤城録』に掲載されています。国定忠治はただのごろつきだったと主張する人達には全く都合の悪いこの記録について、後世の贋作であるという批判もありますが、羽倉簡堂でなければ書けなかったであろうと思われる記述も多々あり、部分的な創作はあっても全体としてかなり信用できる資料であろうというのが一般的な評価です。
そんな頃、忠次郎は殺人事件を起こし、指名手配になります。対立関係にあった島村あたりを縄張りにする島村の伊三郎を子分達と闇討ちにして殺したのです。直接の引き金は、忠次郎の子分、三ツ木の文蔵が伊三郎が遊ぶ賭場でいかさまをやった事でなぐられた事から、血気にはやる忠次郎が子分の仕返しをした事にありました。いわゆるヤクザ同士の低俗な喧嘩なわけで、普通なら身内同士で内密に処理されるこの事件が、関東取締役の耳に入ってしまい忠次郎は指名手配されてしまいました。やむなく忠次郎は、三ツ木の文蔵を連れて信州に逃避行する事になったのでした。国定忠治は生涯何度か殺人事件をおこしますが、いつの時でも直接実行は子分にやらせみずから手を出した事は無かったと言われています。短気なわりに意外と小心だったのかも知れませんね。
 
著作:藤田敏夫(禁転載)
 
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