虚構の義賊国定忠治伝(3)
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 17歳の長岡忠次郎が殺人を犯したという話があります。しかし忠次郎が何らかの犯罪人として指名手配されたらしい痕跡はあるものの殺人罪で指名手配されるほど大それた犯罪をおこしたらしい記録はどこにも現存していません。いずれにしても、何らかのトラブルをおこし、国定村にいられなくなったのは事実のようです。このころ忠次郎は賭博にのめり込んでいたようで、たぶんそんな関係でよからぬ交友の末に問題をおこしたのでしょう。忠次郎は、前橋から大胡にかけて勢力を張っていた博徒の大前田栄五郎親分の元に身を寄せました。このころ、すでに忠次郎の親分肌の器量を読みとっていた日光の円蔵はこの年下の忠次郎の一の子分になっていました。忠次郎の天性を見抜いていたのは大前田栄五郎にしても同じで、自分の子分衆にくわえる事を止め、百々村の紋次(どうどうむらのもんじ)という博徒の親分の元へ修行に出しました。百々村という所は、新田郡世良田の西にある村で、百々の紋次は、このあたり一体を仕切っていた親分でした。慎重派の親分として知られる紋次ではありましたが、忠次郎を見てまたたく間に気に入り、すぐさま親分子分の杯をかわしたのでした。
長岡忠次郎が本当に大前田栄五郎の元にかくまわれたかとうかは異論もあるようですが、百々の紋次の子分になった事は確かなようです。

さて、博徒の名が出た所で、賭博の本場、上州の当時の博徒を紹介しておきます。上州を本拠とする博徒には、国定忠治よりわずかに年上の大前田栄五郎、同世代の江戸屋虎五郎、それと利根川筋と呼ばれた一帯を拠点とする飯岡助五郎、笹川繁蔵などが比較的大勢力でした。国定忠治の世代の博徒には、ほかに知られた者は駿河の清水次郎長、江戸の新門辰五郎、甲州の黒駒勝蔵などという比較的馴染みのある名が出てきます。まあ、ここでヤクザ入門なんてやっても仕方がありませんが、江戸時代の社会の末端を考えようとすると、どうしても避けられない存在ですからね。

 百々村の呼び方は「どうどうむら」ではないかという趣旨のご指摘メールをいただき、たしかにその通りでしたので修正しました。百々村は現在でも群馬県伊勢崎市境百々に地名として残っており、ここの地名は「さかいどうどう」です。
また全国的に見ても古くは百々村と呼ばれていた地区はたくさんあり、調べた限りいずれも「どうどうむら」でした。学者だから間違わないだろうと信じて鵜呑みにするのは危険というのが私の持論でしたのに、みずからが疑問に思いながらも使用した資料にそう書かれているからというだけの理由で採用してしまったミスを反省しております。
(残念ながら、ご指摘いただいた方にはメール返信アドレスが間違っているらしくメールをお届けできませんでしたので、この場からお礼申し上げます。)
記2012.12.31
 
著作:藤田敏夫(禁転載)
 
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