虚構の義賊国定忠治伝(2)

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文化7年(1810年)上州国定村の貧農、長岡家に男児が生まれました。名を忠次郎と付けられたこの男こそ、後の世の民謡八木節に名を残した国定忠治でした。貧農とはいえ名字を認められる由緒のある家柄でした。各種の資料をめくっても、せいぜい「元は中世武家だったと伝えられている」という程度で、新田一門の長岡家とのつながりを予測した私のような説は、ついにお目にかかることはありませんでした。
(※その後、新田末裔説の古記が存在するのを確認しました。手元資料の確認を怠っていました。)

そこで、尊卑分脈新田一門長岡氏系図です。
清和天皇・・・源義家__源義国__
                 |
 ________________|

| 新田
|_義重___義兼・・・・義貞
     |
     | 額戸  長岡
     |_経義__氏経__政氏
             |
             |_経氏
             |
             |_時綱

次に、国定忠治系長岡氏系図・・・
長岡
与五衛門__     __某(長男)
      |   |
      |___|__忠次郎
      |   |
伊与____|   |__友蔵____権太___
                |
                |__波三郎__
                |
                |__利喜松__
長男の存在は私のまったくの想像です。忠次郎の名から見て兄がいたろうと想像しただけの事です。
不作続きと、幕府の失政による重税に上州地方の農民は飢えていました。その飢餓の中で忠次郎3歳の年に母親が死亡、やがて長岡家に後妻に来た新しい母親は、苦労を背負いに来たように、まもなく忠次郎の父親の痛風の看病に明け暮れる身となりました。病床の父、荒れる義母、一説には、こらえきれず幼年の忠次郎は、この義母を殺害したと言われています。事実とすれば、生涯直接他人を手にかけたことの無かった国定忠治の唯一の殺人事件と言えますが事実は不明です。
13歳の年、すでに一家の柱として働かねばならなかった忠治郎は、馬子の仕事に就きました。そこに客として現れた日光の円蔵という人物が戯れの同情で忠次郎に5両もの大金をくれなかったら、忠次郎は、貧しくもまっとうな人生を歩んだに違い有りませんでした。日光の円蔵は博徒でした。博打とは、なんと素晴らしいものか。
貧しい一家をただの戯れで地獄の底からいとも簡単にすくい上げる力がある。貧しさにあえいでいた忠次郎少年は博徒に強い憧れをもつようになりました。
 
著作:藤田敏夫(禁転載)
 
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