北斗の星、千葉氏伝(9)
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《千葉宗胤(ちば・むねたね)》
千葉常胤の活躍で鎌倉幕府の御家人の筆頭の地位についた千葉一族は、その後、下総国守護として鎌倉時代を比較的平穏に過ごしました。上総氏の滅亡もあって、千葉氏の領地は下総国(千葉県北部)の全てと、上総国(千葉県中南部)の半分ほどという広大な領地にくわえ、常陸や陸奥、果ては九州にまで広がり、まさに大豪族の地位を誇っておりました。
後に六波羅探題が創設されるきっかけとなる京都の大乱の際に東海道大将軍として鎌倉軍の東海道方面を指揮したのは千葉常胤の子の千葉胤正でした。
鎌倉のあるじは源氏から北条氏に変わり、北条政権の中、頼朝と共に幕府設立に奔走した名家が次々と粛正されていきましたが、千葉氏はその嵐に襲われる事もなく、繁栄を続けました。しかし繁栄の陰に何度かの存亡の危機はありました。支族の千葉秀胤が、宝治元年(1247)の三浦泰村の反乱の時に連座して一族もろとも自害して果てたのもその一つでした。こうして千葉一族は族滅しないまでも、鎌倉期を通して徐々に弱体化していったのでした。
文永10年(1274)、九州に元の大軍が押し寄せて来ました。いわゆる元冦と呼ばれた外国軍との本格的な大戦です。亡国の危機に、国中の武士団に防衛軍の派遣が指令されました。千葉氏も宗家の千葉頼胤を中心とした大軍隊が九州に向かいます。
千葉頼胤は勇敢な男でした。軍の先頭に立って猛然と敵中に突進し全軍の士気を奮い立たせました。しかしこの戦いで深手を負った千葉頼胤はその傷が癒えぬまま翌年肥前国小城郡の春気城(佐賀県小城郡小城町)で他界しました。
戦陣で他界した千葉頼胤の跡を継いだのは嫡男の千葉宗胤でした。父について九州に初陣していた千葉宗胤は、この時まだ11歳の少年でした。この少年の肩に千葉一族の命運がかけられていたのです。千葉宗胤は、いつ再来するとも知れぬ蒙古軍に備えるために、そのまま肥前に留まる事を余儀なくされました。結果的に元冦は二度のみに留まり、その両方とも奇跡的な神風により救われたのですが再来におびえる幕府は、有力な御家人の帰国を容易に許可しませんでした。
肥前国小城郡は、千葉氏の飛び領でもありましたので、駐留の長期化を覚悟した千葉宗胤は、ここの春気城を改築し、弘安の役後もここに常駐する事になりました。幕府の鎮西探題が九州にできたのちは千葉氏は九州防衛の要として頼られ、ついに生涯下総の本領に帰ることはありませんでした。
この千葉宗胤が、江戸時代の名家鍋島家(直系ではありませんが)の祖となる肥前千葉氏の開祖となったのです。
千葉宗胤は、戦陣の肥前で30歳の若さで他界し、跡を継ぐべき嫡子が余りに幼いため、下総千葉の本領は千葉宗胤の弟の千葉胤宗が、宗家の嫡の胤貞が成人するまで預かる事になりました。これがやがて千葉家を二分するお家騒動に発展する事になるのです。
肥前の空で故郷を想い若くして世を去った千葉宗胤は千葉城下にひとつの寺を建立しました。現在千葉市轟町にある本光山宗胤寺が、それです。千葉宗胤はここに元冦の乱で亡くなった父の頼胤や、一族の勇士達の霊を弔いました。そして現在、開基の千葉宗胤の墓も、この寺にあります。
ところで、千葉一族のひとつの相馬氏は、下総相馬を本領としていましたが、元亨3年(1323)に領地のひとつの陸奥国相馬(福島県相馬市)へ移住し、ここに相馬家伝の牧畜を奨励し、野馬追いで有名な名馬の産地の相馬を築きました。

(参考:千葉氏系図:千葉大系図)

千葉常胤__胤正__成胤__時胤__頼胤__宗胤__胤貞__(肥前千葉氏)
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                    |_胤宗__貞胤__(下総千葉氏)
著作:藤田敏夫(禁転載)
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