北斗の星、千葉氏伝(8)
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《千葉常胤(ちば・つねたね):その2》
下総国府に入ってからの源頼朝は敵無しの勢いになりました。下野国の片田舎の足利荘より足利義兼がわずかな供を引き連れて頼朝の元に駆けつけてきたのもこのころの事でした。後の世に天下を取ることになる足利氏が出世するきっかけをつかんだのは、この時だったのです。
千葉常胤は、もはや源頼朝軍の重臣のひとりでした。全幅の信頼を寄せる頼朝は、この下総国府の地を頼朝軍の本拠地に選んでおりましたが、常胤は、あえてそれに反対する意見を述べました。
「ここを拠点とするより、源義家公ゆかりの地、鎌倉に移られる事をお薦めいたします。あそこは三方を山、一方を海に面している天然の堅城です。まもなく都から敵の大軍が押し寄せてまいりますが、関東平野に入られる前に阻止するには、箱根に近いほうが何かと有利です。」
後に鎌倉時代と呼ばれる長い武家の時代の到来する鎌倉の地を源頼朝に薦めたのは、千葉常胤でした。彼の薦めがなければ鎌倉時代は市川時代になっていたかも知れませんね。
千葉常胤に薦められるままに源頼朝は、もはや大軍勢となった自軍を率いて鎌倉に向かいました。誰の目にも頼朝はすでに関東の覇者でした。
軍が墨田川にさしかかったころ、背後から二万の大軍が近づいて来ました。日和見していた上総介がついに源頼朝への加勢を決心し、最大級の援軍を組織し追ってきたのです。これで関東での頼朝の勝利は決定的となりました。
頼朝の元に合流した上総軍の大将、上総介広常が進みでてきました。
「頼朝殿、軍勢催促に応じ、上総介広常、ようやくお味方するに充分な軍勢を整え馳せ参じました。上総介がお味方するからにはもはや関東に敵はおりませぬ。」
得意満面の上総介に、頼朝は冷たく言い放ちました。
「上総介、二万の大軍を集めるのに遅参したと申すか。今の二万より、わしは真っ先に駆けつけた千葉常胤殿の三百騎の方が、どれほどありがたかったか知れぬ。遅れを取った分は、これより最前線で戦って証といたせ。」
こうして上総軍は激戦地に送られ、その活躍もあってやがて源頼朝は、鎌倉に武家の頭領として幕府を築いたのでした。
そののち上総介広常は武功を認められる事もなく失脚し上総氏は広常の代で滅亡してしまいました。
千葉常胤は源頼朝より益々信頼される重臣となり、父の失った聖地相馬を取り返し、また上総介の領地の多くも手にいれ、頼朝の天下で全国に膨大な領地を得て、千葉氏黄金時代を築いたのでした。
ところで千葉常胤の中央での正式な名前は下総権介平常胤と言いました。しかし今回の源頼朝の挙兵に応じ戦った彼は京都の朝廷から見れば反逆者、朝敵になった事を意味します。朝廷より任じられた下総権介の官位を放棄した事を宣言する意味からも、千葉常胤は、みずからを千葉介と称するようになりました。これ以降千葉氏を相続する者は、すべてこの千葉介の名を名乗る事になるのです。その後、現在に至るまで千葉氏の事をごく一般的に千葉介と呼ぶのは、この千葉常胤に由来するのです。
千葉常胤には、有能な6人の子供がおりました。常胤は、彼らに下総の各地の領地を分け与え鎌倉に忠誠を尽くす強力な武士団を築きました。後の世に千葉六党と呼ばれる事になる下総の武士団の誕生でした。
かれらはそれぞれ、相馬師常、千葉胤正、東胤頼、武石胤盛、大須賀胤信、国分胤道と名乗り、その名の領地を本拠地としました。

(参考:千葉氏系図:尊卑分脈)

千葉常重__千葉常胤___相馬師常
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          |__千葉胤正
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          |__東胤頼
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          |__武石胤盛
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          |__大須賀胤信
          |
          |__国分胤道
著作:藤田敏夫(禁転載)
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