北斗の星、千葉氏伝(10)
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《千葉貞胤(ちば・さだたね)と千田胤貞(ちば・たねさだ)》
千葉宗家の大隅守千葉胤貞は、元冦後も九州の守りを固めよとの鎌倉幕府の命令により肥前国に住まいし、本領の下総国には全く戻る事が許されませんでした。やがて月日が流れ、千葉胤貞は、すでに立派に成人し、千葉一門を率いるのに充分な器量の青年に成長しました。千葉荘にて、留守を守り、千葉胤貞が成人するまでという条件で家督を預かった千葉胤宗は、いよいよ家督返還という時になり考えました。
「すでに宗家は下総の地を離れて遠く九州の果てで三代も過ぎている。もはや千葉荘でも、宗家を知る古参は数少ない。いまではこの千葉胤宗を一家の柱として忠誠を誓う家臣達ばかりになっている。しかもわが子貞胤は、誰疑う事もなく若殿と呼ばれているではないか。いまさら成人した胤貞殿が来た所で、家臣達の心が一つにまとまるであろうか。むしろ千葉の家督は、このまま我が家が継いだほうが一門の為には良いのではないだろうか。」
兄への約束と、千葉一族の安泰を秤にかけて苦しむ千葉胤宗でした。
結局、胤宗は一門の安泰を取り、わが子の千葉貞胤に千葉介を名乗らせました。宗家にのみ許される千葉介の名を正式に名乗らせる事で、千葉一族始まって以来の庶子による宗家乗っ取りが行われたのです。
これには大隅守胤貞は怒りました。
「わたしが嫡宗であることは誰もが知る事実。庶子が千葉介を名乗り父祖伝来の下総の領地を奪うとは下克上の行いである。断じて許すわけにはいかない。」
鎌倉末期の混乱に紛れ、胤貞は下総国に戻り、わずかに残された領地の下総千田荘(香取郡多古町)に入りました。ここで彼は、大隅守千田胤貞と名も改めて、ここを拠点として千葉介貞胤に戦いを挑みました。千葉一門のお家騒動は、こうして始まったのです。千葉氏の結束力のあった惣領制は崩れ、一族はお互いの権益を求めて同族同士の戦いを始めました。千葉氏に限らず、世の中は北条氏が滅亡し、泥沼の南北朝の動乱でどこの家でも身内同士が争う混乱の時代でした。
千田胤貞が千葉氏宗家を主張し拠点としたのは大島城(多古町島塙台)でした。この周辺で千葉貞胤と千田胤貞は、幾度となく戦い、決着がつかないままお互いに疲弊し、名門千葉一族は衰退の一途をたどるのでした。
ところで、この庶子から千葉介になった千葉貞胤は鎌倉末期の動乱には当初北条の軍勢として大仏軍に従軍しておりました。新田義貞が挙兵したおりには新田軍に属し、新田足利の対立期には足利軍に属し、見事なまでの先見で、この混沌とした時代の千葉氏の舵取りをおこない乗り越えていきます。北条氏と密接な関係を持った家柄でありながら鎌倉幕府とともに滅びることもなく、また南北朝の動乱に埋没する事もなく室町時代に生きながらえる事ができたのは、千葉貞胤の手柄と言えます。

(参考:千葉氏系図:千葉大系図)

千葉頼胤__宗胤__千田胤貞
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    |_胤宗__貞胤___(千葉氏)
著作:藤田敏夫(禁転載)
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