北斗の星、千葉氏伝(7)
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《千葉常胤(ちば・つねたね)》
いよいよ、千葉氏の最大の勇者、千葉常胤の登場です。
治承4年(1180)、伊豆の山中でひとりの男が孤独な挙兵をおこないました。源頼朝。父の源義朝が失脚したために、伊豆に流されていた遺児でした。源頼朝は地元の北条時政などのわずかな土豪だけを頼りに立ち上がったのでしたが、この挙兵は、あっけなく破れ、数人のわずかな手勢とともに命からがら三浦半島より小舟で房総へ渡り安房国に上陸しました。
頼朝は房総を拠点として再期を計ることにしました。当時、房総で最も勢力があったのは、上総の上総介広常と下総の千葉常胤でした。とくに上総介広常は安定した荘園経営で自力をつけており軍備力では関東一と言われておりましたので、とりあえず頼朝らは、上総介広常を頼り、そこを新たな拠点とすると決めました。
「上総介殿は、未だ態度を曖昧にしております。いかに内諾があるとはいえ行動に現そうとしないのは不自然です。とりあえず使者を送って確認してみてはいかがでしょう。」
そう源頼朝に進言したのは安房で最初に頼朝を受け入れた安西景益でした。この安西景益の案はさっそく取り入れられ、上総介広常のもとには和田義盛、千葉常胤のもとには安達盛長が派遣されていきました。
安達盛長を使者に迎えた千葉常胤は、すぐに一族の長を集め申し渡しました。
「かつて我が祖は、八幡太郎義家公の恩に報いるために清和源氏の嫡宗が号令したなら、ただちに従うと誓った。今こそその時である。今は弱小とはいえ、源頼朝殿はいずれ国を治める魅力を持った方である。わしは頼朝殿に直ちに従おうと思う。一同いかがか。」
千葉一門にはもとより異論があろうはずはなく、その場で安達盛長にその事が伝えらました。
一方、使者を迎えながらも態度を明確にしようとしない上総介広常の様子は逐次報告され、この結果源頼朝は上総介の元には行かずに千葉常胤の元に向かいました。源頼朝に味方すると決めた千葉常胤の行動はすばやいものがありました。出陣の小手調べがわりに下総目代の館を襲い、続いて千田荘(多古町)の領家判官平親政を襲い、下総内に源頼朝に敵対する勢力は一掃されました。
こうして千葉常胤は源頼朝への忠誠を明確に宣言し、頼朝軍を下総国府(市川市国府台)へ迎えました。敗戦の痛手から、いまだ立ち直れずいた源頼朝を励まし、
「頼朝殿、この常胤が参りましたからには関東中の敵を一掃して見せましょうぞ。」
と力強く言いました。
「おお、それは頼もしい限りだ。これよりは常胤殿を父とも、兄とも呼ばせて貰おうぞ。」
感激した源頼朝はそう言うのでした。
千葉氏が頼朝についたという情報はいち早く各地の有力な武士団にも伝えられました。雪崩をおこしたかのように頼朝の元には関東各地からぞくぞくと武士団が集まってきました。

(参考:千葉氏系図:尊卑分脈)

千葉常重__千葉常胤__
著作:藤田敏夫(禁転載)
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