勃興足利家(5) |
上杉重房は、頭の切れる男でした。次々と公家との橋渡しを実行し、京での足利氏の足場作りに奔走しました。こうして足利泰氏の絶大な信頼のもと三番奉行として足利一族内部での発言力はどんどん高まっていったのです。 上杉重房の娘が側室として足利泰氏の跡取りの足利頼氏(よりうじ)の元に上がり血縁となった時、その立場は歴代の筆頭執事の高階氏に次ぐ地位にまで上っていました。やがてこの側室から生まれた男子が足利家始まって以来の北条家の母でない嫡子となったのです。足利家時(いえとき)でした。足利家時は、露骨なほどに母方の上杉氏を最も重用しました。本来なら家督を相続できる立場になかった自分を強力にバックアップし、現在の地位に導いてくれた上杉氏に絶大な信頼をよせていたのです。代が上杉重房から上杉頼重(よりしげ)になってもその気持ちに変化はありませんでした。何事に付けても上杉頼重の勧めにしたがい強大な足利氏の舵取りを行なっていったのです。もともと京の公家達に強いつながりを持っている上杉氏のフル回転で、足利家時は京での立場が大いに向上していました。京では足利家時は式部大夫と呼ばれ、鎌倉ではそれが足利家時の京かぶれを象徴するものとして陰口の際の陰称として使われていたほどでした。事実、足利家時は京の都に憧れていました。上杉頼重の働きで六波羅探題時茂の娘を妻に迎えてからは、毎夜毎夜聞かされる都の艶やかな話に、その気持ちはつのるばかりでした。 文保元年、足利家時は三十五歳になっていました。その日、先年高階重氏より足利家執権を引き継いたばかりの高階師氏(たかしなもろうじ)が足利家時を訪ねました。 「殿、我々は祖義兼公以来の関東武士でございます。もう少し御家人達を大切にしませんと・・・。」 「またおまえの愚痴か。私は武士には、とんと愛想がつきておる。もう剣を取って野蛮な戦いをする時代ではない。だいたい、おまえのかぶれておる義兼公を始めとして歴代の足利一門のやってきた事といったら何だ。鎌倉将軍や執権殿に媚びるだけの家系ではないか。どこに関東武士の名誉などあると言うのだ。私は太刀を捨てて京屋敷に暮らすのが今の夢だ。少なくとも鎌倉殿にへつらってきた御先祖よりはましというものだ。」 毎度この対立の繰り返しでした。古い関東武士気質の高階重氏には、モダンな上杉頼重に感化され切った足利家時が、どうにも歯がゆかったのです。 「殿、今日はその事も有りますが、ぜひ殿に見ていただきたい物がございます。祖義兼公より足利家に代々継がれてきた秘宝でございます。これには、義兼公より伝えられた古文書が入っております。代々足利を継ぐ者は、これを読み、読んだ者はたとえわが子であろうとその内容を他の者に話してはならないという掟がございます。代々執権を務めております高階が大切に管理し、足利家の当主になった方に一度だけおみせする習わしになっております。ぜひ殿のお手で開けてくださいますようお願い申し上げます。」 言われて眺めると、古めかしい、しかし管理の行き届いた黒漆の箱がそこに置かれてありました。年数の経つ父の花押の封印を破るとそこに緑青を吹いた錠がありました。懐剣で軽く叩くと簡単に錠は開けられました。中にはだいぶ変色した文書が入っていました。 それをやおら取り上げ無造作に読みだした足利家時の顔がみるみる蒼白になっていきました。しばし呆然とその文書をながめていた足利家時は、ふらりと立ち上がると夢遊病のように奥の部屋に入っていったのでした。 その日、足利家時は自害しました。 古文書には、祖源義家が、死に際し自分は七代目の子孫に変わって天下を取ると遺言したとしたためてありました。そのためには歴代足利家を継ぐ者は、自分を犠牲にして七代目の成就の為に尽くせ。ひたすら耐え忍びその時の為に蓄えよ、ともありました。その七代目がまさに足利家時だったのです。足利家は、その大きな野望の為に代々の主君が恥を忍び権力者に媚び力を蓄えてきたのです。なのに足利家時はそんな先祖の所行を恥じ軽蔑し、武士を捨てたいとさえ思っていました。全てが義家公の生れ変りとなる自分の為にしたことなのに。 足利家時は遺言を残し自害しました。 「南無八幡大菩薩。私は足利家の悲願を成就させるべき立場にありながらこの所行。恥じ悔いております。願わくば、この命ささげますのでどうか三代後にふただび生れかわり真に天下を取らせたまえ。」 |
著作:藤田敏夫(禁転載) |
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