勃興足利家(4)
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足利義氏は、嫡子に義父の北条泰時より一字をもらい、泰氏(やすうじ)と命名しました。すでに北条執権の力は国を安定させていました。北条一族でありしかも源氏の嫡流という名誉な地位を築いた足利家は、その勢力を全国に広げていったのでした。とくに三河地方は足利の経済基盤を大いに強めることになりました。ここは肥沃な土地で農生産物が豊かに取れ、しかも東西の経済交流の中間点として栄えました。足利義氏は、泰氏の兄にあたる長氏にこの地を与え、治めさせました。足利長氏は、やがて後の時代に戦国大名として名をはせる今川家、吉良家の祖となるのでした。
また、いとこにあたる足利義実からは細川家、仁木家のやはり名家が誕生することになります。兄弟には畠山家、桃井家をそれぞれなのらせ、巨大な足利一門を全国に形成していったのでした。
足利氏の勢力拡大は足利義氏の子、足利泰氏の代に最大になりました。その子らは、一色公深、石塔頼茂、渋川義顕、斯波家氏となり足利家を支える重臣となりました。北条氏の勢力拡大に平行して足利一門の黄金時代が築かれていったのです。

ある日の事、足利泰氏の元に、奇妙な来客がありました。出で立ちこそ今から戦場に向かわんとするりりしい武士の姿ではありましたが、その言葉遣いは、どうみても似つかわしくない京なまりでした。それでもにわか仕込みのあずま言葉でうやうやしく挨拶をするので、思わず足利泰氏は吹き出してしまいました。
「はあ? 平石殿、そんなに私の言葉は奇妙ですか。」
足利泰氏は、鎌倉御家人からは、特別の親しみをこめて平石殿と呼ばれていました。この京なまりの男もそれにならい足利泰氏を平石殿と呼んだのです。
「いやいや、失礼した。貴殿は公家と見たが、いったいその格好はどうなされた。」
足利泰氏は、この奇妙な来客にたいそう興味をもちました。
「はい。私はご察しの通り、京は勧修寺(かんしゅうじ)家の者で名を重房(しげふさ)と申します。このたびの宗尊将軍の下向に従い鎌倉に参ったばかりでございます。」
あいかわらずの京なまりで、しかし勉強したと思われる間違いの無い鎌倉言葉でした。
「それが何故にそのような武家の格好をしておるのか?」
聞くと、この勧修寺重房という男、鎌倉下りに際し、公家を捨てて武士になる決心をしたといいます。そのため京で武家の風習を習い、言葉も覚えたという事でした。
「公家などと聞こえはいいが台所は火の車。そんな未来の無い公家には、もう飽き飽きいたしました。これからは武士の世であります。どうでしょう平石殿、私を家臣の末席に加えてはいただけませんでしょうか。」
その目には、何とも言えぬ光がありました。
「なぜにこのような鎌倉の末席の足利に?貴殿の家柄なら仕えるにふさわしい家がいくらでもあるだろうに。」
勧修寺重房は、その言葉にニヤリと含み笑いをしました。
「京では、家柄で家格が決められます。都の者達に聞けば鎌倉で一番家格が上なのはどこのお屋敷か決まっております。それは清和のみかどの血に最も近いお方でございます。伊豆の山賊の末裔などではございません。」
その言葉にはさすがに足利泰氏は驚きました。そしてそれは足利家のだれもが潜在的に心の中に秘めた事でもあったのです。
「おもしろい。勧修寺重房殿、都の事情に詳しい貴殿の能力を買って、ぜひ我が足利に来てもらおう。」

勧修寺重房は、こうして足利氏に仕え、名も公家名字から武家名字の上杉と改め、上杉重房(うえすぎしげふさ)と名乗りました。後の時代に、足利本家をしのぐほどの関東の名門となる、上杉家の初代でした。
著作:藤田敏夫(禁転載)
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