【不屈の田中正造伝:13 正造の残した物】

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田中正造は郷里の雲龍寺で仮葬にされたあと、地元の60名の青年により火葬場に運ばれた。大正2年10月12日、三万人の会葬者に送られて栃木県佐野町の春日岡惣宗寺で本葬が行われた。「田中正造に同情して来てくれても少しも嬉しくない。田中正造の事業に同情して来ている者はひとりもいないからだ。」病の床にあった田中正造の怒りを、いったいこの中の何人が理解していたであろうか。

『不屈の田中正造伝』の話は今回でおしまいである。その間、田中正造の為に天皇直訴状を書いた幸徳秋水は、「田中正造の非暴力は結局勝利しなかった。」と公言し、やがて天皇暗殺を計画した嫌疑で捕縛され処刑されたが、力で民衆の不平を抑えようとする不当な公権力の犠牲者のひとりといわれている。

田中正造は栃木県民の誇りであり、伝説の人である。栃木県内から立候補するあらゆる政治家が政党や派閥を越えて最も尊敬する偉大な人物として真っ先に名をあげる政治家の手本でもある。しかし、黒の着古した和服に、わら草履、ぼさぼさの髪に白髭で登庁し、「議長、議長」と議場狭しと怒鳴り、真っ赤な顔で政府の要人を「国賊」「大泥棒野郎」「悪漢」と罵倒したあの田中正造の、ひたすら正義を行おうとした純情を果たしてどれほどの政治家が理解しているのだろうか。

その偉業を偲ぶ関係資料は、現在地元栃木県佐野市の佐野市郷土博物館に常設展示されていて、いつでも見る事ができる。同市にある田中正造生家も神の如く崇拝して止まぬ郷里の人々により保存され現在に至っているが、現在、保存運動資金をめぐる不明朗会計の話題などが地元を騒がせている。時代は変わったのであろうか。

田中正造が生涯を尽くして廃村反対に戦ったした谷中村は、彼の死とともに完全廃村となった。その後も度重なる洪水が渡良瀬川を襲ったが、その全ての洪水において渡良瀬遊水池は、その機能をただの一度も果たした事はなかった。現在、その目的を完全に失った無用の大草原は広大な緑地公園となって人々の憩いの場になっている。結果的に政府は緑地公園を作るためだけに、そこに暮らした人々の生活を根こそぎ破壊したのである。

渡良瀬川は現在、全水路に渡り巨大な堤防が築かれ、また上流の調整ダムのおかげで戦後の一時期の堤防決壊による大災害を除き、氾濫する事は全く無くなった。足尾銅山は昭和47年、銅の枯渇により閉鎖された。古河鉱業が、各地の公害裁判の企業敗北に恐れをなし、調停委員会の調停に従って、公害発生源の事実を初めて公式に認め、わずかな補償金(それも最後まで「補償金」の名目を使用しなかった)を最大の被害地だった群馬県太田市毛里田地区の農民に支払ったのは、昭和49年になってからの事である。実に田中正造が国会に鉱毒問題を告発してから83年後の事であった。

現在足尾町に行くと、今後数百年間は草一本生えぬと言われる不気味に変色した禿山が旧精錬所をとりまいて、さながら地獄を訪れたような悪寒が走る。田中正造は、常に素手で強大な権力と戦った。生涯、彼が戦った相手は農民を人間とも思わない虫けらのように扱う権力機構の不正義であった。

 

 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
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