【不屈の田中正造伝:12 こころざし半ば】

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明治40年、極貧の中で、なお19戸の谷中村の住民が立ち退きを拒否していたが、この5月の洪水は、そんな村人に非情な仕打ちを繰り返した。村人が素手で築いた堤防はもろくも決壊し、全村の半分の麦が被害をうけたのである。しかし強制破壊の執行日が近づいても村人の決意は変わらなかった。栃木県が地元藤岡町で谷中村残留民の家屋破壊の為の人足を募集したが、貧しい者も多いこの町で、めったにない、この割りの良い仕事に応募した町民は皆無であった。藤岡町民の誰一人として谷中村の人々に同情しない者はなかったのである。窮した県が、谷中村の近くの茨城県古河町で再度募集を行うと、この非人道的な暴挙を憎んだ古河町長は、募集に応じた町民は、町の名を汚した人物として、永久追放し、二度と古河町に戻れなくすると公言した。結局県では、谷中村近辺から人足を募集する事は断念せざるをえなかった。
6月28日、200名の警官や執行官、人夫らが谷中村に入り、家屋の強制破壊は始まった。田中正造は、村人が抵抗する事で逮捕される事を恐れたが、村人は田中正造が案ずるよりはるかに立派な態度を取った。次々と破壊される先祖伝来の家屋敷を前に呆然とする者、ただ嗚咽する者、排除されるままに家屋から連れ出される者、皆悲痛な面もちでこの作業を見つめていた。全ての家が取り壊され、谷中村の歴史は終わった。後には廃材と投げ出された身寄りの無い人々だけが残った。村人はその日、破壊されたわが家の前で野宿する事になったが、深夜の豪雨で、老婆も生後間もない乳児も、ただ降りしきる雨に打たれるよりなかった。田中正造は、数人の応援者とともに豪雨の中を村人の安否を確かめに走り回った。67歳の翁の訪問を人々は神ほとけの到来のごとく涙を流して拝んだ。
7月3日。原敬内相は、あの田中正造が敬愛して止まぬ天皇に、谷中村破壊を報告した。それは宿敵田中正造への完全勝利宣言でもあった。栃木県知事は破壊された家屋の前に立ち、得意そうに記念撮影をおこなった。以後世間は谷中村の闘争は田中正造の全面敗北と受けとめて完全に忘れた。村人達は、それでも廃材を持ち寄り、手作りの小さな小屋を思い思いに作り、決して村から離れようとはしなかった。田中正造もむろん彼らと共に雨が降るとほとんどずぶ濡れになってしまう仮小屋で生活した。見かねた支援の弁護士が損害賠償請求訴訟を開始したが、それは12年も続けられたあげくに、わずかな金額で勝訴した。
8月、またもや渡良瀬川に大洪水が発生した。谷中村の修復されていない堤防はことごとく破壊され、谷中村は一面の沼地と化した。田中正造は村人の暮らす小屋を見回るのに、小舟を出さねばならなかった。村人は、ほとんど水没しながらも必死で戦っていた。彼らにももはや田中正造と同じく、故郷を守るという以外に、不正義と戦っている自負が芽生えていたのである。洪水の結果、政府が計画した通りの谷中村遊水池が出現した。しかし、それは周辺になんの効果ももたらさず、河川は各地で氾濫し、関東各地に甚大な被害を与えた。谷中村遊水池計画の失敗は誰の目にも明かであった。追求を恐れた栃木県では、谷中村問題を積極的に解決する事を中止した。
明治41年、県が遊水池計画をあきらめたとする噂を信じて、何名かの村人が戻ってきたが、彼らの期待を裏切るように谷中地区は河川区域に指定された。なにを今更と反対運動に走る田中正造の耳に信じられない話が飛び込んできた。谷中地区を企業に払い下げるという計画が進行しているという事であった。結局事前に漏れた事で中止になったこの計画を知り、政府の本心を知った田中正造は、激怒して各地を奔走し、政府の不正義を追求した。しかし熱弁する田中正造に、彼が生涯をかけて守った各地の農民達は非情だった。彼らにとっては、洪水の無くなる期待の持てる遊水池計画は歓迎できる事であり、その失敗が明らかになった今、代案として計画された膨大な渡良瀬川堤防計画には諸手を挙げて賛成していた。鉱業停止という根本解決を無視して進む治水事業に警鐘を鳴らす田中正造に、もはや耳を傾ける者は無かった。
明治43年に発生した洪水は、谷中村をふたたび丸飲みにしたにもかかわらず、遠く東京方面にまで被害を拡大した。それでも戦う谷中村の人々は、田中正造とともに根気強く水に浸かった田畑を耕作した。その間にも休息を知らぬ田中正造は、治水事業その物の非を正す資料を作成する為に関東各地の河川の流域調査に走った。幕政の頃よりの悪習で、治水事業は小藩単位で行われおり、かえって有害な治水事業も少なくなかった。全体のバランスで治水事業を考えれば谷中村の問題もおのずと解決すると考えたのであった。しかし、彼のこの見識ある事業に積極的に力を貸す者は無かった。
やがて時代は変わり、明治天皇が亡くなった翌年の大正2年、一日も休む事亡く谷中村再興の為に各地を精力的に走り回る田中正造は病身を押して栃木県の足利町を回り、佐野町に入ったところで床に臥した。病床の田中正造を見舞いに来た支持者達に向かい、田中正造は心からの怒りを込めて怒鳴っていた。
「諸君、正造が倒れたのはあの山や川が病んだからだ。本当に正造の病を治したいのなら、すぐに行って、あの安蘇や足利の山川を治してこい。そうすれば正造の病気はたちどころになおる。」
こうして死の直前まで戦い続けた田中正造は大正2年9月4日、72年の波乱の人生を締めくくり、静かに息を引き取った。

 

 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
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