【不屈の田中正造伝:14 あとがき】

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『不屈の田中正造伝』は時代が新しいので、記録が正確に残っていますからいい加減な事は書けませんので、資料検討が一番大変でした。自信の無い記録は片っ端から捨てましたので、田中正造の心の葛藤まで書けなかったのがとても残念です。
それでも、たぶん勘違や資料の見間違いによるミスがたくさんあるのでは無いかと思います。もし、気づいたらぜひご指摘ください。

実在の人物を扱うのには本当に苦慮しましたが、あくまでも田中正造の目で見た人物像という発想で書きました。たとえば古河市兵衛は、ここでは、大悪党として登場させ、その名誉を著しく傷つけていますが、もちろん私はそれが目的でこれを書いた訳ではありません。裸一貫努力の末に、枯渇したと言われた足尾の山に賭けて鉱脈を発見し、明治政府の重要な柱となった事は紛れもない事実です。それを全く評価に値しないと酷評したのは、たぶん過去にも現在にも田中正造だけでしょう。そのほかにも私の評価と違う政府要人もいました。わずかな不正義も許せない田中正造にとっては大半の政府要人は憲法を踏みにじる国賊でした。シリーズでは、その田中正造の発想を重視して可能な限り再現しました。実際にはもっと過激な評価している人物もありましたが、主観か客観かをぼかしたお話では、あれが限界でしょう。

晩年は、名声を曇らせるような老醜をさらしたと評する人もおりますが、隠居する歳を過ぎてもなお青年期の情熱を全く変わらず持ち続けた田中正造だからこそ偉大なのだと感じ、後半で晩年の彼を表現しました。田中正造の評価は、いろいろあるでしょう。偉人と簡単にかたずけられるほど単純な人生ではありませんでした。明治のドン・キホーテと評価した小冊子も見かけた事がありますが、私の最も嫌いな評価です。

もし、『不屈の田中正造伝』で、多少なりと人物に興味を持たれた方がいらっしゃったら、ぜひこの埋もれた偉人の伝記を図書館で捜してみて下さい。でも、あまり見つからないかもしれませんが。

入手可能な田中正造関係図書(佐野市教育委員会「田中正造翁」より抜粋)

『通史足尾鉱毒事件』 東海林吉郎・菅井益郎 (新曜社)
『田中正造』 由井正臣 (岩波新書)
『田中正造その生涯と思想』 林竹二 (筑摩書房)
『田中正造全集』全19巻 (岩波書店)

青少年向け図書

『果てなき旅』上下巻 (福音館書店)
『オルコット・田中正造』 (講談社)
『田中正造』 (さ・え・ら書房)
●田中正造を思う人々●
 最近地元紙で『公害の原点』という言葉でのみ全国的に知られている足尾町の特集連載があり興味深く読んでいました。いまだ町の奥に一歩踏みいると、四方まったく植物の生えぬ異様な光景の山に囲まれている足尾の風景は、さすがに公害問題教育の生きた標本として注目され、最近でも都内の中学生が率先して提案し社会学習に訪れた話が紹介されていました。しかし迎える側の足尾の住民感情は微妙で、学校教育で田中正造をどう思うかと教師が生徒に訊ねたら、非常に悪い印象で見ている生徒がいる事に驚き教育の難しさを痛感させられた話がありました。

足尾鉱毒問題に正面から戦い挑んだ田中正造は、その足尾から流れる渡良瀬川下流住民には神仏のような存在ではあっても、足尾で代々銅山で働きその恩恵で平和に暮らす事ができていた人々にとっては、まったく別の感情を抱く事があるのは心情的に理解できます。現在の足尾市でも公害問題を考えるとともに足尾の美しい自然にも目をむけてほしいとやってくる人々に願っているとの事でした。

さて肝心の下流では田中正造の遺訓は、どう伝わっているのか。以前佐野市にある生家が道路拡張問題で現状保存を主張する人達と対立した事件がありました。 その後、現状のまま保存され今に至っています。しかし田中正造は自分の健康を心配する人々に心から怒りをもって、破壊された大自然のほうを心配せよと言っていました。つまり生家保存など田中正造を理解しようと思ったらどうでも良い事なのです。田中正造の偉業を史跡として残すなら、公害の無い美しい自然こそ田中正造の史跡として指定すべきだと思うのですが、なかなか理解する人は少ないようです。(2003/11/27改  2008/5/23一部削除)
●佐野郷土博物館●
栃木県佐野市の中心部からやや西にはずれた場所にあり、入館無料の良心的な施設です。郷土史関連の資料は、何といっても郷土の英雄、田中正造が中心で、館内資料の約3分の1くらいを占めています。全国的に知られている俵藤太こと藤原秀郷に関する資料は、なんと、まったくありませんでした。
おもわず、佐野が俵藤太の地元だと思っていたのが自分の勘違いだったのかと混乱してしまいましたが、俵藤太が佐野の豪族だったことは史実ですので、ただ地元の評価が薄いというだけの事のようです。考えてみれば、俵藤太は教科書にも出てこないし遺徳をしのぶ遺産もなにもない伝説上の人物。かたや田中正造は教科書にでかでかと出てきて、いまだに地元民の尊敬の的になっている。勝負になりませんね。

あとは、明治期の機織りの関係の資料、古墳地帯らしい縄文弥生から鎌倉期の出土物の展示が目につきました。派手さはありませんでしたが、公害の原点の資料館としてはその価値は充分あると感じました。ちょうど、私が覗きに行った日にも、どこかの社会問題に関係しているらしい団体の見学がありました。
●田中正造と土木●
 田中正造の求めていたのは、ただひとつ、足尾鉱山の全面閉鎖であり、防止処置、河川浄化、治水事業、農民救済は副産物にすぎませんでした。見かけ上の勝利はしましたが、結局田中正造は「不正義を正す」という真の目的では直接的に敗北したという評価が当たっているのではないかと感じます。

いまでこそ、企業公害の責任は発生源の企業とともに自治体や国にもあるという考えが常識となっていますが、当時は「おかみにお願いして助けてもらう」という発想はあっても、「責任は放任しているおかみにある」という発想は、あまり無かったようで、かなりの識者でさえ彼の主張は極論であるとかたずけられていました。

しかし、実は彼の主張は合理的で現実的なものであったと再評価されたのは、昭和に入って集団的な公害が発生してからの事でした。私もこの郷土の偉人を子供の頃から学校や地域で学ばされて知っておりましたが、子供の頃は、やはり、一地域にとっての偉人であろうと誤解していました。富国強兵を進めねばならぬ政府の辛さや、足尾町の銅山で働く人々の立場を全く理解しない等、単なる地域エゴの代表だっただけなのではないかと。残念ながら今でもそういう誤った評価をする人もいるようです。晩年支持母胎の地元識者から浮いてしまったのも、結局はそれが原因でしょうね。

土木という面で見るならば、意外に思われるでしょうが田中正造は渡良瀬川の堤防治水事業にも大反対でした。彼の主張では、足尾の鉱山をただちに閉鎖し、溜まった鉱毒水を浄化処理し、足尾の山に植林すれば、堤防など邪魔なだけであるという発想でした。

たしかに堤防が作られた事で、決壊による大量死者発生という堤防の作られる前では考えられなかった事件はありましたが、現実に堤防が築かれた後には鉱毒被害が激減した事は事実ですので、田中正造の主張の中で唯一誤った判断と見る人が大半です。しかし、足尾銅山の経営が始まる以前は、増水しても氾濫する事は滅多になく人的被害はほとんどなかった渡良瀬川です。洪水が運ぶ沃土による恩恵と数年に一度の氾濫による被害を相殺した場合、はるかに利益の方が大きいという、自然の恵みを愛した農民田中正造らしい発想ではなかったかと思います。

また、利根川の水が江戸に流れないように工夫したあの江戸時代の工事が、増水した利根川を不自然にせき止めて、渡良瀬川に逆流をおこしているという彼の主張は、後に科学的に証明されました。これは、田中正造を語るときにその気性の激しさから見落とされがちですが、田中正造は感情論だけで反対していたのではなく、谷中村遊水池計画が科学的に判断して誤りである事をすでに、実行前から学術証明していた事を示しています。
●渡良瀬遊水池公園●
現在の谷中村がどうなっているかを見に行ってきました。足利市からですと、国道50号線を佐野市で南に折れて藤岡町へ向かえば車で40分程度の場所だったのですが、わざわざ50号線を東進して、小山市の近くまで行き、そこから戻ってくる形で渡良瀬遊水池北面を西になぞってみました。

たしかに、藤岡町と、旧谷中村の境界は、高い堤防が延々と続いており、車を止めて堤防に登ると、手前をどんより流れる渡良瀬川の向こうははるか地平線まで続く草原でした。そこが巨大なひとつの村をそっくりのみこんだ河川敷かと思うと、思わず悪寒が走ってしまいました。

どこまでも続く堤防を左に見ながら進むと、やがて藤岡町の中心部へ到達します。渡良瀬川にかかる大きな橋を渡るとき、左手を見たら、堤防が左右に扇型に広がっているのがよくわかり、そのあいだにはるか彼方まで広がる草原や森が不気味な全貌を現しています。もちろん事情を知らずに見れば、都心にこれほど近い平地で大自然の残る大河川敷は美しい眺望でもあります。

藤岡町をわずかに通り越したあたりで、一端群馬県板倉町へ入り堤防側に左折すると、旧谷中村の合同慰霊碑がありました。近来の遊水池公園建設工事で発見された村内に放置されたままの道祖神や無縁仏の墓石が神仏混合で壁にはめ込まれた中に、村中で発見された遺骨を納骨した慰霊碑が立っていました。慰霊碑には、遊水池計画が実行された当時の村人全員の名前が三方に刻まれ、残る一方は谷中村の悲惨な事実を淡々と刻んだ碑文が書かれてありました。おおやけの慰霊碑にしては、せいいっぱいの国政に対する批判が盛り込まれている名文で、感激しました。

この慰霊碑の外には建設碑が立っていて、これが建設省が建設したものである事や、栃木県知事はじめ県を代表する主だった人達の名が刻まれていました。ただ残念だったのは、正面から慰霊碑まで続く道が背丈ほどもある雑草に覆われていて、人が通れる隙間も無かった事で、慰霊碑全体も雑草に覆われた中にあり、そこに慰霊碑があるとは外から見ただけでは、とても信じられないような荒れようだった事です。脇から入る道があり、中に入ると、たしかに荒れ放題になっていましたが、慰霊碑には、数日前にあげたばかりと思われる花が飾ってあり、わずかばかりの浄財が添えられていました。(このホームページを公開した 数年後に、再び訪れてみましたら、雑草は刈られ、正面から入れるゴミひとつない美しい慰霊碑によみがえっておりました。)

その場所から堤防を越えて渡良瀬遊水池公園の中に入ると、一面の大草原の中に、車が楽にすれ違いの出来るよく舗装整備された道が延び、途中いくつかの無人ゲートをくぐっていくと、最近完成した「谷中湖」と呼ばれる調節湖に行き着きます。なんと、駐車場に入ってびっくり、そこに来ている人のすべてがウインドウ・サーフィンを楽しみに来ているのです。湖自体、ウインドウ・サーフィンの為に作られたような作りになっており、監視塔付きの立派な公園でした。たぶんサーファーには有名なメッカになっているのでしょうね。これほど整備された公園なら趣味を持つ人達には、たまらないでしょう。そこを離れて草原の中を走る舗装道路を走ると、四方に延びた道沿いには、やはりアルファベットのゲート名のついた駐車場がいくつもあり、そのひとつに谷中村の遺跡が保存されているゾーンがありました。

駐車場の案内板には、谷中村の簡単な歴史の書かれたものや、この遊水池が現在でも水量調整や近県の水道用水として有用に利用されている事を主張する建設省のPRや、遊水池全体の広さはドーム球場の100倍あるという案内がされていました。駐車場から歩くと、草原の中によく整備された遊歩道が延び、突如として「谷中村役場跡」が現れました。平面の遊水池の中で、わずかに盛り土されたような小高い場所にあり、今はそこには休憩小屋が立てられていました。近くには民家の跡やお寺神社などといった村の名残を示す案内がそこかしこに立てられていました。散策するには最高の場所で、哀史を思い出すような悲しい遺跡はなにもありませんでした。

しかし、ふと足を止めた私は、そこで絶句してしまいました。何気なく見上げた巨木の葉が、なんと、あの桑の葉だったのです。本場で生まれ育った私ではありますが、これほどの桑の巨木は見たことがありません。普通桑といえば、せいぜい大人の背丈程度で、子供の頃の記憶で3メートルくらいの大きな桑の木に登って桑の実を食べた覚えがありましたが、目の前の巨木は、それをはるかに越える見上げるほどの大木でした。気づくと、人家があったらしい小高い場所には、決まって草原を突き抜けた桑の巨木があちらこちらにあり、谷中廃村後、人々の記憶から忘れ去られた長い歴史を知らされる物でした。

おおきな公園内は、マウンテン・バイクやサイクルカー、ローラーなどで遊ぶ若者や、釣りを楽しむ人、散策を楽しむ家族連れでいっぱいでした。午後5時になると、公園の管理者からの放送があり、ゲートを閉めるという案内がありました。全体によく整備されたヨーロッパ型公園という感じでした。私は地平線にまで続く草原を眺めながら帰路についたのでした。

渡良瀬遊水池公園へは、東北自動車道路佐野インターから車で15分程度です。お近くの方ならぜひ遊びに行くといい行楽の穴場だと思いますよ。

 

不屈の田中正造伝 完
著作:藤田敏夫(禁転載)
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