【南風 9】後南朝
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後亀山天皇の反旗
1410年、先帝後亀山は、突如嵯峨野を出て旧南朝拠点の吉野にむかいました。その真意は、祖先の後醍醐天皇の先例に習い幕府に反旗をふるう意志があることを天下に示し、少しでも旧南朝の力を誇示することで、和平の条件の履行を幕府にせまることにありました。
しかし、後亀山天皇の努力もむなしく、和平の約束のひとつであった、『天皇は両統から交互に』の破棄に決着をつけるかのように後小松天皇は1412年、御子に譲位してしまったのでした。称光天皇の誕生でした。
後亀山天皇は、これに対抗し、伊勢の北畠満雅(みつまさ)を挙兵させましたが、その力は弱々しく、とても南朝再興とまではいきませんでした。その後、後亀山天皇は吉野に1416年まで滞在しましたが、望みむなしく嵯峨野へ戻ったのでした。
小倉宮の反旗
後亀山の孫に出家した聖承という小倉宮家二代の人がおりました。1428年夏、病気の重くなった称光天皇の後継問題が発生した時、彼は、今こそ両朝和平の条約履行をと幕府に迫りましたが、無視され、ついに決起し伊勢多気に向かうと北畠満雅に奉ぜられて挙兵しました。
しかし、やがて死亡した天皇の後継として後花園天皇が即位し、皇位継承の希望が失われ、しかも頼りとする北畠満雅が伊勢守護土岐持頼に破れ敗死すると、空しく帰京したのでした。嵯峨野に戻った聖承は、幕府から冷遇され、餓死寸前にまでも貧しい生活を続けました。
神器奪取
1443年9月23日夜。南朝の遺臣、金蔵王と日野有光は禁中に乱入し後花園天皇を狙いました。女官の機転で女装した天皇は、からくも脱出に成功したものの、神器は奪われてしまったのでした。彼らは比叡山に立てこもったものの、3日後に幕府軍に攻めたてられ首謀者は討死しましたが、神器は宝剣以外その後16年間行方不明となるのでした。
さて、この事件の陰の主役は小倉宮聖承の遺児小倉宮教尊でした。かれはこの事件の後、隠岐流罪となり、その後の消息は不明となりました。
楠木氏新田氏の滅亡
さて、南朝はすでに歴史に埋没した形で人々にはただの山賊集団でもあるかのごとく語られ伝えられておりました。その典型的極悪人として楠木正成の名がありました。彼らの子孫や配下の系列は、幕府転覆を計る悪党集団としてことごとく捕らえられ斬首され、その命脈は完全に絶たれたのでした。
1390年、楠木右馬頭、1429年、楠木光正、1437年、楠木兄弟、1447年楠木雅楽助、1460年楠木某...と、わずかばかりの反逆の記録を残して。一方新田氏のほうも信濃、奥州、箱根、相模などでの戦跡があるもののいずれも破れ死亡し、ほとんど族滅してしまったのでした。
後南朝史
1443年紀伊の北山で挙兵した後村上天皇の孫にあたる南朝宮が、1447年幕府により攻められ討ち死にしました。その後、小倉宮系の兄弟の宮が、以前御所より奪った神器の一部をもち立ち上がりましたが、1457年、赤松氏により襲撃され非業の最後を遂げたのでした。
1471年8月、その頃京都は応仁の乱に明け暮れていたのですが、東軍の細川方に天皇はじめ上皇も将軍も奉じられていたた山名軍は大義明文に苦慮しておりました。そこで故事に習い、南朝の小倉宮の系列で大和越智の壷坂寺にいた皇子を奉じ南北朝の対立になぞらえる形式をとりましたが、単に形式上の問題であり、人々が興味を失った時点で、その存在価値も失われ戦乱の終息とともに宮の行方すら不明となりました。
その後、南朝の皇族も臣僚も史上から完全に消滅し時代はやがて戦国の動乱を迎えようとしていたのでした。
 
著作:藤田敏夫(禁転載)
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