北斗の星、千葉氏伝(5)
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《千葉常兼(ちば・つねかね)》
千葉常兼の代は、関東武士団が大活躍し、やがて次代を担う武士の時代を予測させるころでした。奥州へ出陣する源義家に関東各地の武士団がこぞって参加し出陣したいわゆる後三年の役(1083〜87)があったのもこの時期でした。
源義家は清和天皇の子孫で、後の世に源氏の祖、武家の神と崇められる事になる大人物でした。源義家は京都の南、男山八幡宮を信仰し、自ら八幡太郎義家と名乗って奥州へ出陣していました。この奥州での戦が私闘であると朝廷から宣告され、何の恩賞も得られなくなった時、源義家は、彼とともに従軍した坂東武者達に私財を投じて報いました。この心意気に感じた関東武士団は、それ以降源義家を武家を束ねる頭領として忠誠を誓い、その子孫が万一号令すれば、直ちにその元に馳せ参じましょうと誓ったのでした。
これより後に天下を取った源頼朝、足利尊氏、徳川家康に関東の武士達の大半が従ったのは、彼らがこの源義家の子孫であったからでした。先祖の恩を忘れぬ坂東武士の心意気が彼らに天下を取らせたのです。もっとも徳川家康の場合は、そんな坂東武者気質を悪用し清和源氏新田系の子孫であると詐称したのですが。
武士が信奉する神の中でも最も大切にされていたのが、八幡大菩薩でしたが、その武士達に源義家は八幡大菩薩の化身と崇められていたのですから、その信頼の強さを知る事が出来ます。
さて、この後三年の役に出陣し、八幡太郎義家に忠誠を誓った人物の中に千葉常兼もおりました。千葉常兼は傘下の武士団を引き連れて参加し、華々しい活躍をしました。
「我が千葉家は、後々の世まで大恩を忘れず、清和源氏の嫡宗家の号令あらば、いかなる所からも駆けつけまする。」
源義家にほれこんだ千葉常兼は、こうやって義家に忠誠を誓ったのでした。さて、千葉氏は、当初大友城を本拠地としていたとご紹介いたしました。この大友城のあった場所は、千葉県のかたなら地理がすぐに浮かぶでしょうが、千葉県の東端、銚子市に隣接する香取郡東庄町内の大友という場所にありました。現在では特に史跡と指定された城址が残っているわけでもなく、私が調べたところでも、わずかに良文貝塚などという村岡良文を連想させるような場所がある程度で、たぶん地元の人にも千葉氏開祖が住んでいたという話はあまり知られていないのではないでしょうか。実際には最初の入植地があったというだけで、千葉氏の実質的な拠点は現在の千葉市一帯の裕福な千葉荘あたりだったのではないかと思います。
千葉常兼は、千葉の荘園の中心地の上総国大椎城(千葉市大椎町)に本格的な戦闘形態の城郭を築き、ここを本城として千葉軍団を統率する強力な武装集団を形成しました。本格的な中世武士団としての千葉氏の成立でした。
千葉氏は惣領制による分家の時代に突入し、千葉常兼の子供達は、それぞれ、領地を与えられ、臼井、椎名、海上、などの分家を作りました。後の時代の結束して戦う千葉家臣団は、この時から作られていったのでした。
武家の力が中央に影響を与えるようになり、やがて不穏な空気が関東各地に漂い始めます。新たな動乱の時代の幕開けでした。
千葉常兼のあとを継いで惣領家の長となったのは千葉常重でした。

(参考:千葉氏系図:尊卑分脈)

千葉常永__千葉常兼__千葉常重__
著作:藤田敏夫(禁転載)
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