北斗の星、千葉氏伝(4)
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《千葉恒将(ちば・つねまさ)》
忠常の乱が治まり、また関東平野にしばしの平和が訪れました。朝廷もことさら事を荒げるのはかえって武家の力を強めるばかりと警戒し、村岡忠常の領地も、嫡子の村岡恒将に安堵し、すべてを水に流しました。
あらたな領主となった村岡恒将は、父に似て領民に善政を敷き慕われました。恒将は、忠常の乱で荒れ果てた上総、下総の領地回復につとめる事に全力をあげました。記録では、上総にあった2万町もの田畑が、ただの18町にまで激減しほぼ壊滅状態に荒れ果て、下総もほぼ同じような状態だったとあります。村岡恒将は、この困難な事業を着実に進めるにあたり、家臣達を集めて語りました。
「わしは、この千葉荘の地に領民と共にある事を広く宣言する意味で、由緒ある村岡の家名を返上し、これよりは千葉を名乗ろうと思う。一同いかがか。」
居並ぶ家臣達の前で、恒将が宣すると、諸将にはもとより異存があろう筈もなく以後、千葉の地に土着した事を意味する千葉姓を恒将は名乗る事となったのでした。名門千葉氏の誕生でした。
千葉恒将は、とくに父祖に習い、下総北部の相馬と呼ばれる地を千葉氏の聖地と位置付けて、盛んに開発を進めた結果、やがて昔にまして豊かな土地にまで回復する事に成功し、領民から益々信頼される名家となりました。また祖父のころより進められていた馬の放牧には特に熱心に取り組み、いつの頃か坂東一の名馬の産地と呼ばれるようになりました。つまり相馬と牧畜の結びつきは、平安の昔にさかのぼるわけです。
順風の千葉氏は、やがて千葉恒将より千葉常永へと継がれていきました。
《千葉常永(ちば・つねなが)》
千葉常永は、下総権介を授かりましたが、当時上総、下総両地区に広大な領地を持っていた千葉氏には、上総権介も下総権介も単なる名目上の肩書きにすぎませんでした。千葉常永も父の善政に習い、私営田の開田と領地の発展に尽くしました。
この頃は武家の力が益々強い物となり、惣領制といって、強い武家が近郷の一族を束ね統率して軍団を作るという、関東武士団が各地に勃興しはじめてきた頃でありました。千葉氏も例外に漏れず、千葉常永の千葉宗家を頂点として下総上総の有力な武家が一団となる千葉一族が形成されておりました。
さて、千葉常永には、ふたりの子供がおりました。将来の千葉氏を何やら暗示するかのように、家伝の月星のあざは長男の常時には現れず、次男の常兼に現れました。
「不吉な前兆であるが、家伝に従い、家督は常兼に譲る事とする。」
月星の印のあるものが家督を継ぐという千葉家の家伝に従う千葉常永の決定には一族の誰もが素直に従いました。この不思議な運命のいたずらには誰もが逆らう事が許されなかったのです。
こうして長男の千葉常時は上総権介として千葉一族の惣領制からも離れ上総の地へ移り、以後上総氏の開祖となりました。千葉氏の家督は下総権介の千葉常兼が相続しました。やがてこの両家は全く対称的な運命をたどる事になろうとは、この時、誰もが予測しておりませんでした。

ところで千葉氏の家紋を月星紋とご紹介いたしましたが、この珍しい家紋は宗家だけが使用していた紋だったようで、血族といえど他の千葉一族は、月星紋は使用しておりませんでした。千葉一門は主に九星紋という家紋を使用していました。この九星紋の九星とは、北斗七星に、二星を足したものを表しており中央に大きな星と、周囲に小さな星をあしらった家紋です。千葉氏が北斗七星を聖星としていた様子がよくうかがえる話です。北斗七星は当時武家には特別な意味を持つ星と見られており、とくにその中のひとつ破軍の星は千葉氏に限らず坂東武者にとって神聖な星だったようです。

(参考:千葉氏系図:尊卑分脈)

村山忠常__千葉恒将__千葉常永__千葉常時__(上総氏)
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                |_千葉常兼__(千葉氏)
著作:藤田敏夫(禁転載)
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