北斗の星、千葉氏伝(6)
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《千葉常重(ちば・つねしげ)》
千葉常兼のあとを継いで戦乱を予感させる時代の惣領を継いだのは千葉常重でした。父の常兼は、大椎城が戦闘用の城としては手狭なのが常々気になっていて常重に事あるごとに改築をすすめておりました。
「ここの城は平城であるから、攻めるに易く、守るに難い。せめて周囲に土塁を築いてもっと攻めにくい城にすべきだ。」
大椎城は父親が要塞城として作り上げた城でしたが、まだまだ実戦向きとは言えない城でした。父親の心配に千葉常重は答えるように新城の築城を発表しました。それは関東でも最大級の巨大な平城の構想でした。千葉荘の中心部にある猪鼻丘陵と呼ばれる地に城を築き周囲を土塁と石垣でかためた本格的な要塞城でした。
大治元年(1126)、下総国千葉城はこうして千葉常重により建設されたのでした。現在花見の名所として良く知られている亥鼻城祉公園の場所が、まさにこの千葉城の築城された場所です。郷土館が天守閣を模倣してあるために、あの場所を本丸跡と多くの千葉県民が勘違いしているという話を聞いた事がありましたが、あの場所は二の丸のあったあたりで本丸ではありませんでした。とにかく巨大な城で、現在の青葉の森公園はその敷地にすっぽり入り、大手門は千葉大整形外科病棟の門あたりにあったのだそうです。城下には荘厳な北斗山金剛授寺を作り、家伝の妙見菩薩を安置し家宝の七星剣を奉納しました。これが現在、JR千葉駅や京成千葉駅から歩いてすぐの所にある千葉神社です。一般に妙見社と呼ばれた金剛授寺より城までの間に城下町が広がり、千葉荘は巨大な城下町として発展する事になるのです。
本丸の眼下には東京湾が広がっていたといいますから、現在の亥鼻公園の東側の真下は海岸線だったようです。まさに千葉城は天然の要害を利用した典型的な武装城でした。
今や下総、上総に強力な軍事力を誇る大軍団に成長した千葉氏ではありましたが千葉常重は、千葉氏の原点に立ち帰るべく、相馬郡の開発に力を注ぎました。
「相馬の地は、今や我が強大な千葉一族の領地からすれば辺地の小領に過ぎない。しかし、ここは千葉宗家の聖地である。ここを開発し守ることは千葉一族の繁栄につながる重要な事業である。」
千葉常重は、ことあるごとに家臣達に、そう言い聞かせるのでした。常重の努力で相馬の地は、益々豊かになり私領から、伊勢内宮に寄進するという形式により、ついに相馬御厨という新たな荘園として生まれ変わったのでした。千葉常重は、その下司職という形式で公領の領主となり、典型的な領主制豪族として益々その威力を誇るようになっていきました。
長承5年(1136)、その前の歳に16歳の元服したばかりの嫡男千葉常胤にこの相馬御厨の下司職を相続させたばかりの千葉常重の元に、国司からの使いが訪れました。
「なんと、国司殿から公田官物未納につき、相馬御厨の領有権を没収すると通告してまいった。こんな理不尽な事があろうか。」
千葉常重は狼狽しました。国司の藤原親通は公田官物未納という難癖とも思える通告を行い、納期限がすでに過ぎている事を理由として相馬御厨の領有権没収を通告して来たのです。豊かになった相馬御厨は、ふたたび国司に狙われたのでした。
「中央の権威には到底逆らえぬ。なれば源義家公の御威光をおかりして、源義朝公に奪い返していただくまでだ。」
父の代よりの、源義家公との旧知の仲を頼り、千葉常重は窮状を源義朝に訴えました。そして相馬御厨の下司職は源義朝公に贈呈したという形式を整え、贈呈済みの物を奪われる筋合いはないと、相馬御厨の実質的な領有を続けました。
国司との不仲は、およそ10年間続きましたが、やがて、未納の進物を改めて納めるという形を取って和解し、国司からは、相馬郡司という肩書きを受けて、正式に相馬御厨の領主の地位を保証される事になりました。ただし名目とはいえ正式には相馬御厨は源義朝の領地でありましたので、やがて動乱の前触れとなる平治の乱(1159)で源義朝が失脚すると、相馬御厨の地は謀反人の領地という事で、再び没収されてしまうのでした。千葉家の聖地である相馬御厨の地は、こうして常陸の源義宗に渡され、千葉氏は、はじめて相馬御厨に対する全ての実権を失ってしまうのでした。
時代は千葉常重から、若き千葉常胤に移っていこうとしていた頃の事でした。

ちなみに、相馬御厨の地とは、現在の千葉県我孫子市、茨城県竜ヶ崎市、藤代町、伊奈町、守谷町、谷和原村、取手市、水海道市の各地域を含む広大な地域を指します。千葉氏の領地のほんの一部であったとはいえ、この広大で肥沃な土地が千葉氏の聖地と見られていた事はうなずける気がします。

(参考:千葉氏系図:尊卑分脈)

千葉常兼__千葉常重__千葉常胤__
著作:藤田敏夫(禁転載)
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