勃興足利家(2)
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足利の地に土着した源義国には二人の有能な子がおりました。長男の義重(よししげ)と次男で正妻の子の義康(よしやす)でした。ある日の事、義国は、二人のわが子を呼び、告げました。
「よいか、おまえたちは、いつも対等な兄弟だ、兄弟は決して争ってはならない。そこで二人に公平に私の財産を分け与える。子々孫々まで、仲良く相争うことのないよう、伝えよ。」
そして、弟の義康には正妻の子として家嫡を継がせ足利の地を与え、兄の義重には足利の地と同等の広さの未開拓の隣地を切り開き新たな家を興すよう告げました。
「足利の隣の地に新田を開き、一族を栄えさせよ。そう、義重、おまえは新田を開く者、これよりは新田義重と名乗るがよい。わしは足利の開拓を終えた身だ。今後は義重とともに新天地の新田で暮らそう。」
こうして、二人の仲のよい兄弟は、足利義康、新田義重としてそれぞれの家に分かれたのでした。
「我が源氏のしるしは丸に三本の筋が入っている。中央の一本は、長子の印として義重に、両の二本は次子の印として義康に与える。これよりは両家の家紋とするがよい。」
こうして二引両(ふたっぴきりょう)の家紋の足利家、大中黒(おおなかぐろ)の家紋の新田家が起きたのでした。

新しく領主となった足利義康には難問が待っていました。父義国の弟の高階惟頼の領地、梁田御厨荘の扱いでした。渡良瀬川の北に住む藤姓足利氏の足利家綱(いえつな)は、元より梁田御厨荘は源義家に譲った覚えはないと、その領有を主張し、高階惟頼と激しく対立していたのでした。
「宮廷より梁田御厨荘の領有を正式に認められたというのに、未だに藤原の者達は梁田領に了解もなしに入り込み、荘官のごとく領民より租税と称して野武士のように穀物を奪って行く。もう忍耐も限度というものだ。」
高階惟頼の子、高階惟真(たかしなこれまさ)は、熱血漢でしたので、足利義康の止めるのも聞かずに、藤姓足利氏に夜討ちをかけました。従兄弟ではありましたが、兄弟同様に育ち仲の良かった足利義康と高階惟真は、性格は正反対でした。
夜半、渡良瀬川を渡り、藤姓足利氏の居城両崖山に向かいました。不意を突いた作戦は成功したかのように見えましたが、あらかじめ予測し体勢を整えていた藤姓足利の軍勢にたちまち取り囲まれ、高階惟真は、討ち死にしてしまったのでした。
「よいか、私は戦さを嫌った。それがために、梁田御厨荘の領有問題の解決が遅れた。その結果がこれだ。私は誤っていたのだ。自らの領地領民を守る為には、戦かうよりない。われわれは誇り高き清和源氏。我が祖は天下国家の為に剣を持って戦ってきたのだ。恥じないような力を持たねばならない。」足利義康は、遺骸の無い高階惟真の墓前に一族の者を集め誓うのでした。

足利義康は、その子、足利義兼(あしかがよしかね)と足利義清(よしきよ)(細川氏祖)に徹底した武人としての教育を行ないました。成人した義兼に父義康は、諭すように告げました。
「よいか、この足利の地を守るのは力だ。今や都の者どもには、われわれの権利を守る力はない。これからは兄弟力をあわせ、この地を守るように。」
すると、足利義兼から、思いもかけない言葉がかえってきたのです。
「父上、守りさえすれば良いのでしょうか。祖義家公は、自らを捨てて天下国家の為に戦いました。我らも都に上って御国の為の戦いをすべきかと思います。」
足利義康は、義兼の目に天下取りの野望に燃えた炎の目を見たのでした。
「義兼、よくぞ言った。存分にやってみるがよい。」
読者より、この当時の渡良瀬川は、もっと南部を流れていたはずで、渡良瀬川をはさんで両足利が対立していたというのは、誤りではないかというご指摘がございました。
確かに当時の渡良瀬川が、現在の栃木県群馬県の県境を流れる矢場川の流路 あたりに沿って流れていた事があります。
ただし、渡良瀬川は、当時より流路を定めたことはなく、現在でも足利市南部の土地をすこし掘るだけで、丸く大きな川原石がごろごろと出てくるように、実は足利南部全体が 毎年のように激しく流れが変わる渡良瀬川の河川敷 そのものでした。現在でも伏流水が南部一帯を流れており、足利市の水道の取水施設も、ここの上に作られております。
そのような理由で、現在の八幡神社の前の道路 付近が渡良瀬川の流路だった頃を想像しながら、このお話を書いた次第です。
著作:藤田敏夫(禁転載)
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