勃興足利家(3)
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世の中は騒然とした時代でした。伊豆の山中より天下取りの旗揚げをした源頼朝(みなもとのよりとも)は、やがて鎌倉の地に幕府を開き、武士の時代が到来したことを世の中に示す事になるのです。一度は敗北したものの房総半島より再起した源頼朝の元に、足利義兼は、わずか数騎を伴って、足利の田舎より駆けつけました。やがて鎌倉に入った頼朝には関東に敵はおりませんでした。
さて、北条政子(ほうじょうまさこ)(頼朝の妻)の心を巧みに捕らえて源頼朝の厚遇を手中に治めた足利義兼は早速その威厳を示す目的で、鎌倉に広大な足利屋敷を構えました。それは北条一族の屋敷の規模にも匹敵する物であったといいます。むろん源頼朝は、あえてそれを許しました。そうすることで源氏の血の優位性を関東武士団にしらしめる必要があったからでした。しかし、同じ源氏一族でありながら、足利氏の親戚の新田氏に対する源頼朝の態度は、全く対象的に極度に冷たいものでありました。
当時の新田荘は、新田一門の努力の開墾で、北関東屈指の規模に発展しており、いまだにわずかな領地を争っている程度の貧しい足利荘とは、比べものにならないほどの規模でした。新田義兼は、新田家の支族程度に没落した思っていた足利氏に頭ごなしの待遇がもたらされるのが、何とも我慢の出来ない事でした。財力的にも、関東武士団の中では、トップクラスの力を持つ新田氏だったのです。それに見合った鎌倉屋敷の建設許可を幕府に申し出ましたが、認められたのは市中に門構えもままならないような、わずかな場所でした。
「新田義兼殿には、武士の頭領としての才覚は無かった。無かったのにも関わらず、大きな望みを持ちすぎたのだ。頼朝殿も、充分見抜いておられる。今の新生幕府には、新田殿の力は、ただ迷惑なだけなのだ。」
足利義兼は新田義兼に同情しました。上州から越後にかけて巨大な勢力を持ちながら関東武士団の心を捕らえる事が出来なかったばかりに天下取りのいくさに遅れ、源頼朝の冷遇に耐えなければならない。ほんの数カ月前までは家臣とさえ思っていたたった数百石足らずの足利氏に先を越されてしまったのです。その屈辱感は、相当な物であるに違いありませんでした。
足利義兼は源頼朝の忠実な家臣としてよく働きました。そうすることで地力を蓄えなければ小国の生きる道は無いと考えての事です。北条政子の義弟としての立場を彼は大いに利用しました。彼は、形の上でこそ源氏の天下ではあるが実態は北条政権であることを当初より正確に見抜いていました。彼はそのロビー外交手腕のすべてを北条氏にむけたのです。
北条時政(ときまさ)の娘との間に生まれた足利義氏(よしうじ)の正妻に、北条泰時(やすとき)の娘をもらい受けたのもその一つでありました。また別腹の足利義純(よしずみ)には、畠山重忠(はたけやましげただ)と死別した北条時政の娘、つまり足利義兼の妻の姉妹にあたる年上の娘をもらい受けました。
足利義兼の手腕は戦場の時以上に発揮しました。彼は足利郷での旧来よりの絹織物生産に全力を上げさせました。可能な限り高級に仕上げ、その大半を蓄財ではなく、外交に利用しました。これが絶大な力を発揮しました。金を積んでも入手できない高級品となると、多くの武家の女達が争って、つてをもとめて足利義兼の所へおとづれ請い求めます。これを政治賄賂として利用して、鎌倉での足利氏の地位はますます高まったのでした。
やがて時は移り足利義兼の子足利義氏の代になると、その地位は不動の物となりました。宝治二年(1248年)、結城朝光(ゆうきともみつ)は足利義氏よりの書状を手に、声を荒げ、家臣に何事かわめき散らしていました。
「足利の田舎者が、このような書状をよこしおった。」
家臣の一人が、放り投げられた書状を手に読み返し、不思議そうに主人に訪ねます。
「ただの連絡事かと思いますが、なにかこの文面に不快な事でも?」
「わからぬのか。たわけ。結びの肩書を見よ。」
言われて家臣は、ハッとしました。そこには、『結城上野入道殿、足利政所』とあるではありませんか。結城家も足利家も幕府の御家人の立場、いわば同輩であり、当然主従の関係にはありません。書状では『結城政所殿、足利左馬頭入道』と相手を立てた書き方をするのが当然の礼儀であるのに、これでは相手を見下している事になります。
ただちに結城朝光はさほど必要とは思われないこの書状の返書をかき、最後に、ことさら墨を濃くしたうえで『足利左馬頭入道殿、結城政所』と添えました。事は、ついに執権時頼の所にまで及び、時頼は、双方を呼び事情を聞きました。結城朝光は結城家が源頼朝の元で活躍した家系を示し、足利は我が名門結城よりはるかに家格は下であると主張しました。一方の足利義氏は結城氏は元々源氏の元で働く者であると主張し、そのうえで、我が足利は源氏の嫡宗が途絶えた今では、最も源氏宗家に近い、いわば源氏頭領である。つまり結城家は足利家より家格が下であると訴えました。
幕府創設期にはたしかに名門結城氏であり、いかに源氏の血を引くとはいえ当時はなりあがりの足利氏のほうがはるかに家格は下と思われていました。しかし、執権時頼の裁定は御家人達を驚かせました。時頼は、双方を同格と裁定し、双方を宥め、事を治めたのです。
ついに足利氏の力を幕府も認めざるを得ない時代がきた象徴的な出来事でした。足利氏は源氏の頭領としての地位を着々と手中に治めつつありました。
著作:藤田敏夫(禁転載)
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