勃興足利家(1)
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時は1057年、場所は下野国足利。
「殿、ここはなかなか良い土地ではありませんか。あの大河の流れは、一年中切れることは無いと聞きます。」
高階惟章(たかしなこれあき)は、奥州遠征の帰途立ち寄った足利の地で、渡良瀬川を背にした陣営にくつろぐ主の源義家(みなもとのよしいえ)に目を輝かせて報告しました。
主従の関係とはいえ、高階惟章の母冷泉局(れいぜいのつぼね)は、義家の乳母であったので幼い頃より二人は兄弟同様に育てられ、義家にとっては最も信頼のできる家臣の一人でした。
「ほう、惟章、だいぶ気に入ったようではないか。ではあの大河の南半分を足利よりもらいうけ、そのうちの東半分を荘園として開拓したらどうだ?これでも私は元下野の国守、足利殿も私の頼みなら大河の南の未墾の地を譲ってくれよう。」
当時、この足利の地は、平将門を倒して一躍関東の大豪族にのし上がった佐野唐沢山の主だった藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫である藤原系足利氏が治めておりました。
東半分という言い方がおかしくて高階惟章は、思わずニヤリとしました。
「で、西半分は殿が鋤鍬をもって開墾するのですか?」
これには義家も大笑いして答えました。
「いやいや、これでも私は源氏の頭領、そんなわけにもいくまい。だが叶うなら戦を忘れ、そんな暮らしをしてみたいものだ・・・。そうだ、私は平和を願い、足利の東の地に八幡宮を寄進しようぞ。」
ふたりは久しぶりに心の奥から笑いあったのでした。
かくして足利の地は三つに分割され、中心を東西に流れ足利を二分している渡良瀬川を挟み、北半分の足利中心地が土着の藤姓足利氏領、南半分のうち東側を梁田御厨荘(やなだみくりやのしょう)と呼び高階惟章が領有、西側を足利庄八幡郷大将陣(たいしょうじん)と呼び源義家が領有しました。

これより30数年もたったある日の事、征夷大将軍となった源義家の元へ高階惟章が訪ねてきました。
「殿、どうでしょう。私にはいつになっても実子ができません。そこで今度生まれた日野様の御子を養子にいただけないでしょうか。」
日野有綱(ひのありつな)の娘は源義家とは、だいぶ年が離れていたが、義家には最も寵愛されていました。先年義家にとっては三男にあたる義国を出産し、今度の子は四男でした。
「そうだな。では三歳となったら乳母とともに預けよう。」
こうして義家四男源義頼(みなもとのよしより)は高階惟章の養子となり、名も高階惟頼(たかしなこれより)と改めました。

このようなわけで源義国と高階惟頼は実の兄弟でした。兄弟の仲はよく、お互いに信頼しあっていました。家督争いで家が乱れた時も、二人の兄弟はけして争うような関係にはなりませんでした。義家の跡を取るはずの二男義親(よしちか)(長男は早世)が追放となった時、家督は当然三男の義国に譲られるべきでしたが、当時義国は新羅三郎義光(しんにさぶろうよしみつ)(武田祖)の配下として活躍しており、すでに義家にとっては反対勢力と化していましたから、家督は五男義忠(よしただ)から、次男義親の子為義(ためよし)へと義国、高階惟頼兄弟を避けて継がれていきました。二人は家督争いに巻き込まれるように京を追放され、野州足利の地へと逃れるように流れていったのでした。
源義国は足利庄八幡郷に土着し、高階惟頼は養父の領地梁田御厨荘に土着しました。源義国、これから後、彼は足利義国と名乗り後の足利将軍家の開祖となるのです。高階惟頼、彼は義国の忠実な執事となり、後の足利家の名執事、高師直(こうのもろなお)の祖となるのです。

著作:藤田敏夫(禁転載)
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