【不屈の田中正造伝: 6 対決県令三島】

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栃木県史の中で、最悪の指導者の名をあげよと尋ねれば識者のほぼすべてが三島通庸と答えるに違いない。それほどに県令三島の悪政の記憶は生々しく県民に語り継がれている。
三島通庸は薩摩士族の出身で酒田県令、福島県令を歴任したのちに栃木県令として赴任してきた。彼には常に伊藤博文の強い後ろだてがあり、先々で行った暴挙も中央で責められる事は全くなかった。伊藤博文は、このような人物を積極的に登用する事で自分の権力を不動の物にしようと企んでいた。
酒田県での暴挙を耳にした福島県民はこぞってこの暴君を警戒したが、福島県令として絶対的な権力を持って乗り込んできた三島通庸に県民は無力であった。無謀な道路建設計画を独断で作成し、ただちに全県民に無償での労役を義務づけた。また富豪からは強制的な寄付を取立て、また重税を課した。この有無を言わさぬ道路建設で福島県の経済は完全に破綻し、こののち立ち直るのに数十年もかかった。活発な反対運動には弾圧を繰り返した。これら道路建設で得た莫大な利益が伊藤博文の懐にすべて落ちていった事は言うまでもない。
福島県から延びた道路を帝都にまで延ばす。三島通庸の目が栃木県に向けられた。そして明治16年、福島県令、栃木県令兼任という肩書きの三島通庸が栃木県庁に姿を現した。田中正造43歳の年であった。
すでに福島県の惨状を耳にしていた栃木県では、県令三島に反対する空気が充満していたが、実際に赴任が決定すると、弾圧を恐れ全く影をひそめてしまった。富豪は、これから起こる悲劇を察知し我れ先にと他県へ移住を始めた。
県令三島の行動は早かった。着任早々県都を宇都宮に移転する事を発表し、ただちに県庁の建設にとりかかった。三島流のやり方で、宇都宮の庁舎にふさわしい土地を決定すると、そこの住人の住居を予告もなく破壊し強引に建設を開始し、わずか二ヶ月という短期間で完成させた。立て続けに福島県令を兼任する三島通庸は、福島県民を強制使役して作った道路を栃木県と結ぶための新道路建設を発表した。有無を言わせぬ道路建設が始まったのである。
田中正造は、多くの県会議員同胞とともに、果敢に県令三島と戦ったが、せいぜい県令三島の行動を一時的に妨害する程度の力しか無かった。栃木町の近くのある村での惨状は三島通庸の暴挙の一例であった。乙女村と呼ばれたその村では三島通庸の命令で道路建設が行われた。まず該当する地区の指導者を力で拘束し、計画承認を強要し、次に村人を全て無償奉仕の人夫としてかり出し、欠勤者からは高額の罰金を取り立てるという無謀な物であった。怠ける人夫を巡査が鞭打ち、村人を奴隷として使役したのであった。さすがに地元巡査では勤まらぬこの役は、土地に無縁な者が使われた。村で尊敬されていた惣代が殴られているのを見た村人が見かねて助けに入ったのがきっかけとなり、72名の逮捕者が出るという大事件に発展した。みせしめに惣代の妻は裸にされて打たれるというむごい暴行を受けた。田中正造が村に到着してみると、すでに村人はすべて離散し、誰一人住まぬ廃村の様に変わり果てていた。
議会での田中正造の声が一段と激しい物になっていた。さすがの三島通庸が恐ろしさの余り議場から逃げ出すほどの剣幕でその暴挙を責めたてた。三島通庸が刺客を送り込んできたのは、その直後の事であった。すでに幾度と無く困難を生き抜いてきた田中正造にとって、チンピラのごとき刺客など、全く恐れるに足らない物であった。一度は東京に逃れた田中正造であったが、ふたたび帰郷すると、さっそく三島通庸の残虐さを証明する証拠集めに奔走した。
明治17年9月、田中正造は証拠集めと三島通庸の魔手から逃れる日々であったが、ある日県境を越えて群馬県の館林町に入ったおり、支持者と名乗る見知らぬ男から、田中正造が犯罪人として指名手配されている事を聞かされた。三島通庸を爆弾テロで暗殺しようと計画したいわゆる加波山事件の一味の首謀者であるとでっち上げられてしまっていたのだ。
やむなく再度東京へ逃れた田中正造は、外務大臣井上馨に証拠の書類を提出しようと計画したが、井上馨と面識のない身では、逮捕されるだけで書類提出が不可能になる場合もあると考え、事も有ろうに敵中の本山、警視庁へ出頭した。「自首ですか。」と問う応対の課長に、犯罪は侵していないので自首ではない。と、三島通庸の非を証明する膨大な証拠資料を提出した。
やがて田中正造は、宇都宮へ護送された。あの丁重に応対した課長は、あの証拠資料をうまく上層部の目に触れさせる事ができるであろうか。今は、それだけに望みを託すよりなかった。
宇都宮に到着した田中正造には、想像通りの冷遇が待っていた。暴行を加えられ、嫌がらせを受けながら、公判の要求は無視され続けた。やがて県会議員との面会を謝絶する目的で県都から離れた佐野警察署へと護送された。
田中正造は、獄中から県令三島との対決文を支持者に送り続け、その風文は中央でも知れ渡る事になった。あまりもの三島の不人気についに伊藤博文もただの一年の任期で県令三島を解任せざるをえなくなった。
ただちに田中正造は、釈放された。獄舎を一歩でた田中正造は、「田中先生万歳!」という黒山の県民の熱狂に包まれた。我らが英雄田中正造が、極悪非道の三島通庸に勝利した。県民の歓声は途切れる事無く続いた。やがて栃木県会議長に推挙された田中正造であったが、地方議会レベルでの非力さを痛感していた田中正造は、すでにこの時、国政参加への強い決心を持っていた。
失脚の翌年、三島通庸は警視総監に任命された。伊藤博文の保安条例を帝都で厳しく実行できるのは、その忠実で冷酷な手下の三島通庸をおいて他に無かったのである。県令三島の残した栃木県新庁舎は、その年に火災で全焼した。

 

《小休止》

●栃木県庁宇都宮市●

ここで書いた通り、栃木県の県庁が宇都宮市になったのは、三島通庸の悪政の産物と言われています。元来、県名は、県都の名前をつけるべしという新政府の方針で、すべての県名は県都の地名が付けられました。栃木県内には、日光県、宇都宮県、栃木県、足利県、などさまざまな県が設置され、吸収合併地域割りが繰り返された後に、栃木町を県庁とする、現在の栃木県が完成しました。それを三島通庸が、まったく個人的な考えで強引に宇都宮に移動してしまったのです。
群馬県では、現在の群馬町が県庁でした。埼玉県では、サキタマ古墳のある行田市の埼玉地区、茨城県では水戸市南方にある茨城町、神奈川県は、現在の横浜市神奈川区。それぞれ栃木県と同じ様な事情が繰り返されたのちに現在の県庁所在地に落ち着いたわけです。でも宇都宮県、前橋県、水戸県、浦和県、横浜県、のほうが、わかりやすいですかね。(注:この文章を書いてから10年ほど後に埼玉県の県庁所在地がさいたま市と名を替えました)
 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
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