奇将足利尊氏:第12話【南北朝】

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入京してみると、そこはすでにもぬけの殻であった。後醍醐天皇方は、京都市街戦を不利とみて新田義貞らとともに、再び比叡山に登ったのだった。不気味なほどに平穏に足利尊氏率いる九州四国中国の諸豪族の大軍勢は京都に入り、新たな主となった。あらかじめ申し合わせていたとおり、寺明院の法皇一行は比叡山には行かず京都に残っていた。法皇に謁見した足利尊氏の表情は誇らしさに溢れていた。六条河原にさらされていた楠木正成の首を故国に帰すふところの豊かさを示すことで、この戦が尊氏の全面勝利になったことを人々に印象づけた。
後醍醐天皇方は、体制を立て直すための比叡山行きであったが、世情が足利尊氏の天下平定で平和が戻ることを願うようになってきていることに焦りを感じた。足利尊氏の再起があることなど思いも寄らなかった後醍醐天皇方の朝廷公家たちは、足利尊氏を九州に敗走させた東北の武士団を早々に帰郷させていた。北国の異形が市中を徘徊することに耐えられなかったのだ。そして再び足利尊氏が進軍してきたとき、比叡山の山中で、公家たちは、ひたすら若き北国の将軍北畠顕家が上洛してくるのを待つのであった。
戦局は、日増しに後醍醐天皇方に不利になっていった。焦りから決戦を急いだ千種忠顕や名和長年など、後醍醐天皇が隠岐島を脱出した当時からその中心として活躍していた有力な武士たちが敗れ去った。
もはやなすすべをもたない後醍醐天皇に、足利尊氏は京都御還幸を勧めた。もとより後醍醐天皇に弓を引くつもりなど毛頭なく、取り巻きで、まつりごとを混乱させた公家たちや、宿敵新田義貞と戦い、後醍醐天皇を救出することが大義名分の戦いであった事を長文の文にしたため比叡山に届けたのだった。
足利尊氏の言葉に気持ちが揺らいだ後醍醐天皇は、新田義貞に無断で比叡山を下る決心をした。直前にこれに気づいた義貞は驚いた。忠義に天皇に従ってきたこの義貞を見限って、足利尊氏の元に後醍醐天皇が行こうとしていたなど、想像することすらできなかったのだ。
「なにかの間違いであろう。おかみに限ってそのような事。」
新田義貞に続く言葉は無かった。後醍醐天皇も一度は義貞の忠義に感じて動座を思いとどまったが、結局は新田義貞には北陸に落ち延びて再起を図るよう促し、わずかな公家衆らを伴って京の市中に向かった。
後醍醐天皇に再会した足利尊氏は、天皇のまつりごとに翻弄された数年の混乱を、二度と見たくはないと思った。天皇には譲位後静かに過ごしてもらおうと決心し、花山院の故宮に案内した。随行してきた側近に対して厳しい処罰を行い、北陸に向かった新田義貞には大軍勢の追っ手を差し向けた。
やがて北陸の新田軍が壊滅的に破れ、いずこかに消えたことが報告された。捕らわれた親王は京都に戻された後に、何者かによって毒殺された。足利直義の所行だろうという市中のもっぱらの噂となった。
8月28日の夜のこと、花山院の後醍醐天皇の姿が京都から忽然と消えた。ほどなく吉野の山中にて新たな朝廷の宣言をする後醍醐天皇の噂が伝わってきた。以後五十年にも及ぶ京都の朝廷と吉野の朝廷の対立の時代、後の世に「南北朝時代」と呼ばれた日本史上特異な時代のはじまりであった。
後醍醐天皇が吉野に築いた南朝は、足利尊氏を苦しめ続けたが、時代は足利将軍家を中心とした新しい武士の時代に大きく流れていき、その流れの中に南朝は静かに埋もれていった。
足利尊氏は、自ら擁立した北朝の天皇から、宿願の征夷大将軍の地位を得たが、それはだいぶ後に、北陸から好敵手だった新田義貞が流れ矢に当たって死亡したという知らせが入ってからの事であった。
 

 
その後も足利尊氏の理想とした武士が統率する平和な時代はなかなか来なかった。よりいっそう孤独となった足利尊氏の、人間味溢れる苦悩の後半生については、次回お話しすることにしよう。
 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 

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