奇将足利尊氏:第8話【はじめての敗戦】

前 戻る 次
一度敗走を始めると、たとえ錦の御旗の大儀を持った新田義貞軍といえどもろかった。勢いで京に攻め上る足利尊氏軍に対して、敗走してきた新田義貞軍が市中になだれ込んできた京都市街は大混乱となった。
これを見ていた各地の諸豪も、次々と足利尊氏に応じて朝廷に反旗を翻した。その中には鎌倉倒幕の重要な功労者でありながら、不当な恩賞に泣いた赤松円心も混じっていた。彼は楠木正成同様、孤軍強大な鎌倉幕府軍と戦い、やがて怒濤の倒幕機運が全国に盛り上がるきっかけを作り、六波羅攻めに最も勲功のあった武将であった。本来であれば足利尊氏新田義貞に次ぐ恩賞があってしかるべきと思っていたのに、戦後彼に与えられたのは、元々の小さな彼の所領を安堵するという、まるで敗軍の敵将にかける情けのような、とても恩賞とは言い難い沙汰であった。これは自分の望んだ世の中ではない。熱血漢あふれる赤松円心は、足利尊氏が京都を離れ、鎌倉に向かったときから、すでに足利尊氏の反旗を予感し、尊氏が反旗したなら、真っ先に呼応する事を決めていたのだ。
西、東からの足利尊氏に呼応する大軍勢の前に、まだ無傷で健在だった楠木正成軍や名和長年軍が主力となって京都防衛の要である宇治、勢多、山崎にその大半の勢力を集中させ防衛にあたった。
「楠木正成は知将だそうであるが、山中で奇策をおこなう程度のことしかできぬ者だ。大軍勢はわずかなほころびで壊滅する事をまだ知らぬとみえる。」
足利尊氏はほくそ笑んだ。そして、竹ノ下での戦法をここでも使用した。つまり敵の主軍が待ちかまえる宇治、勢多には見向きもせず、迂回して八幡方面から背後の手薄なところに集中攻撃をおこなったのである。大軍勢は、わずかなほころびから全体が動揺して統率がきかなくなる事を足利尊氏はよく知っていた。案の定官軍は総くずれとなり、後醍醐天皇もろとも比叡山に逃れた。
足利尊氏の全面勝利であった。全国の武将の多くが足利尊氏に味方している。あとは劣勢の新田軍らを徐々に追いつめれば、足利尊氏による新しい秩序の武士の時代が訪れるはずと、足利尊氏に呼応した誰もがそう思った。
しかしこのとき、足利尊氏は、その後の長い混乱のもとになる新たな勢力が近づいていることを知らなかった。奥州を短期間で統一し、後醍醐親政の危機に、奥州の勢力をひきつれて登ってきた北畠顕家軍であった。北畠顕家は弱冠二十歳にも満たない少年であった。後醍醐天皇のそばに仕える父親の北畠親房の命で建武の新政後の奥州を束ねるため、未開の地に入り、苦闘の末に短期間で奥州統一を果たして後醍醐天皇に背いた足利尊氏の後を追い京都に向かったのである。
新たな援軍に力を回復した後醍醐天皇の官軍の前に、さしもの足利尊氏も力負けしてしまった。園城寺の戦い、神楽岡の戦い、糺河原(ただすがわら)の戦いと、いずれも破れ、丹波篠村に逃れた足利尊氏は兵庫に向かい、打出浜(うちでがはま)などにて楠木正成に押され気味の戦いを強いられ、ついに周防の大内軍や長門の厚東軍らに守られて瀬戸内の海上を九州方面へと敗走していったのである。
足利尊氏初めての敗戦であった。
 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
前 戻る 次
 

尊氏足利尊氏のホームページに戻る