おもしろ南北朝

足利尊氏は足利に来たことは無い
足利は太平記の里ではない
神風が足利尊氏のために吹いたことがある
後醍醐天皇は何回も天皇を辞めた
天皇と呼ばれた天皇は少ない
稲村ヶ崎は徒歩で渡れた
稲村ヶ崎は奇襲作戦ではなかった
尊氏は六波羅を滅ぼさなかった
九州地方の『太平記の里』
10南北朝争乱の火付け役は後伏見上皇
11日本初の紙幣は後醍醐天皇が発行した
12騎馬武者像は足利尊氏ではない
13楠木正成と湊川神社
14楠木正成は非情なひとだった
15仮名手本忠臣蔵と南北朝の関係
16時代祭に室町時代

 

 

足利尊氏は足利に来たことは無い

「来た事が無い」も何も、足利尊氏は、元々足利荘生まれの足利荘育ちじゃ無いの?という声が聞こえそうですが、実は足利尊氏は足利荘生まれではなく、当時幕府のあった鎌倉の足利屋敷で生まれ育ったというのが通説です。しかも足利荘に、その生涯で一度も来たことはなさそうで、個人的には足利荘とは全く無縁の人と言われています。ただ鎌倉屋敷で生まれたとする正確な記録が存在していないことから、絶対的なものではないと主張する学者もおります。しかし、当時鎌倉でも北条得宗家に匹敵するほどの広大な屋敷を構える足利家の嫡男が、父祖の地というだけの理由で足利の片田舎に生まれ暮らしたというのは、あまりに現実的ではありません。また当時の足利家にとっては、足利荘は、もはや父祖の地という以上の意味は無くなっており、実際に足利一族を潤していた最大の領地は、現在の愛知県付近の、三河と呼ばれていたあたりでした。当時足利一門と言えば、おもに三河武士の事を意味していたのです。

足利尊氏の天下取りの戦いでは、彼の軍隊として集まってきたのは、河武士団の吉良氏、細川氏、今川氏などという、後の戦国時代にも活躍したことでおなじみの武士団が支えておりました。この三河地方からは、後の世に徳川家康が、やはり三河武士の助けで天下を取っております。つまり三河地方は、足利尊氏、徳川家康の二大将軍を産んだ場所と言えます。

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足利は太平記の里では無い
足利の町中を歩くと、ときどき「太平記の里」というのぼりを見かけます。では足利尊氏の活躍が克明に描かれている「太平記」に足利荘は、どのように描かれているでしょうか。答えは、全く描かれていない。となります。「太平記」全巻のどこを探しても足利荘が地名として登場する箇所はありません。隣の新田荘は、新田義貞挙兵のあたりに克明に描かれています。その範囲は現在の新田町、尾島町、太田市とその周辺地域をあわせたあたりです。従いまして、これらの町が「太平記の里」を自称するのは正しいことですが、足利市は「太平記の里」ではないのです。また太平記に登場する武将の故郷を見ると新田一族として群馬県内いたるところの故郷の地名を苗字とする武将が登場するのに対して、足利付近を冠した武将は全く登場していません。と言うことは、南北朝の動乱の時、国家の命運を掛けた戦いに足利から参戦した武将は全くいなかったのかもしれませんね。

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神風が足利尊氏のために吹いたことがある
戦前の教育を受けた方は、足利尊氏を天皇に弓矢を引いた「逆賊」と教わり、足利出身だというだけで軍隊で粗暴な扱いを受けた方も有ると聞きます。これは、いわゆる皇国史観と呼ばれる誤った歴史認識にもとづいた戦前の教育によるものなのですが、実はこの皇国史観は、戦前の指導者達にとって都合の良い部分だけを抜き取った、欠陥だらけのものでした。
たとえば、わが国には古くから「神風」という考え方があります。これは神である天皇が起こすことのできる奇跡のひとつとされ、たとえば天皇の軍隊、いわゆる「皇軍」が、絶体絶命のピンチにおちいったとき、天皇の力で突風をおこして、逆転勝利することができるというもので、鎌倉時代の蒙古来襲も、神風で防ぐことができたとされています。
ですから、神風は必ず天皇のためにだけ吹くのですが、何と太平記には、九州に敗走した足利尊氏が、地元の菊池一族らと起死回生の戦いをおこなったとき、奇跡の神風が彼を助けた事が記されているのです。つまり神風に守られた足利尊氏は、皇軍だったことになり後醍醐天皇は偽天皇だったという事になってしまいます。
これは一例に過ぎませんが、南北朝の対立を天皇の皇軍・賊軍という捉え方で教育した戦前の皇国史観が、いかに手前味噌のいい加減なものであったかがうかがえる好例です。

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後醍醐天皇は何回も天皇を辞めた
後醍醐天皇はその波乱の生涯で、何度も不本意な譲位を行っています。そのたびに不屈の精神で皇位を取り戻し続け、逃亡先の吉野の山中にあってもなお、京都の天皇を無効と叫び自ら天皇を名乗ったまま最期を遂げました。
ではその生涯で、たとえ不本意ではあっても正式な手続きを経て譲位したのは何度あったでしょうか。記録に残っている譲位として、最初のものは、笠置山にて始めて正面から幕府と戦い、破れた直後です。
逃走中も持ち歩いていた神器を鎌倉幕府から指名された新しい天皇の光厳天皇に譲り渡しています。このあと隠岐に遠島になるのですが、やがて不屈の精神で島を抜け出し、船上山にて各地に倒幕の号令をした際、あの神器は偽物で、本物は手元にあると公言しています。これが本当だとすれば、後醍醐天皇でなければ判別できないほど精巧な神器の複製品を後醍醐天皇はあらかじめ用意していたことになります。やがて幕府が倒れ、京都に凱旋した後醍醐天皇は、光厳天皇の即位を無効として、天皇に復帰します。このとき光厳天皇に与えていた偽神器をなぜか回収しています。偽物ならあえて回収する必要もないはずですが、どうしても回収したい理由があったようです。
つぎに譲位した記録としては、足利尊氏に攻められ比叡山に逃れたおり、新田義貞の制止をふりきって足利尊氏に投降したのですが、この際、新田義貞を説得する目的で、皇太子の恒良親王に譲位し、新田義貞に預けています。つまりこのとき正式に恒良親王が新しい天皇になった事になり、当然神器も恒良親王のもとにわたされたはずです。
しかし足利尊氏の元に行った後醍醐天皇は、実は我が子への譲位は嘘であった事を公表します。我が子に渡したのとは別の神器を取り出して、光明天皇に、これが本物の神器であると言って渡し、正式に譲位しているのです。
しかもしかも、この直後、後醍醐天皇はふたたび京都を逃れて吉野の山中に逃亡し、光明天皇に渡した神器も偽物で、やっぱり本物は自分の手元にあると公表したのです。いったいこの天皇、偽神器をいくつ持っていたのでしょう。そして正式な天皇は、相変わらず自分であるとして、ここに吉野朝廷を宣言しました。
つまり後醍醐天皇は、公式に知られているだけで生前三回も不渡り譲位しているのです。

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