世良田氏の謎解きに挑戦(4)

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《吾妻鏡》

 基本的な事を述べさせていただくなら吾妻鏡は、『東鏡』、つまり鎌倉時代近辺の関東での出来事を中心に記録した書物で、新田一族の草創期の様子を知る事のできる記録です。それでは吾妻鏡では世良田氏は、どう表現されているでしょう。 実は、吾妻鏡には世良田開祖義季の「義季」という文字は全く存在しません。そのかわりに同時代の武将として『新田蔵人(新田義兼)』に並んで数度登場する『徳河三郎義秀』という武将があります。これが世良田義季の事であろうと古くから言われていますが、『義秀(よしひで)』と『義季(よしすえ)』では、文字は似ていても読み方が全く違います。吾妻鏡に限定して考えても、『読みが同じで文字が違う』というのは随所にあり、不自然ではありませんが『文字が似ていて読みが違う』というのは誤記でもないかぎり考えられません。可能性の問題になりますが、偶然何度も同じ誤記をするという事は非常に不自然ですので、『義秀』と『義季』は別人と考えるほうが正しいと思えます。
ところで、吾妻鏡には、その後の場面で『参河守頼氏』という人物を紹介しています。そして同一人物をはっきりと『新田参河前司頼氏』と始めて『新田』と紹介する事で世良田氏二代頼氏のである事を明言しています。このころの新田宗家は、四代の新田政義が京都大番役の途中で無届け出家し、惣領権を没収されるという事態になっています。惣領権を預かり新田氏の惣領として鎌倉に奉公したのは同族の世良田頼氏でした。その関係から彼は通常新田頼氏と呼ばれ、めざましい活躍をします。
 そこで肝心の『徳河三郎義秀』とは、いったい誰なのかという基本的な問題ですがもし世良田義季なら、彼は尊卑分脈から見ても『徳河四郎』と呼ばれるべきで、『三郎』はおかしい。そこで早々の『ふじた史観』登場で申し訳ありませんが、たまたま新田一族とともに挙げられていただけの事で、全く関係のない別の人物であるという考えも別に無理な発想ではありません。また、確かに得川郷の地頭として『徳河三郎義秀』と名乗った新田一族であると限定したところで、尊卑分脈に登場しない新田義兼の兄であったとする考えも可能です。
前にお話したように、世良田義季が得川郷を領有した確たる証明はなされていませんので、ここには世良田義季とは別の兄弟が居住していたとしても少しも不思議ではありません。ただし、世良田義季の庶子頼有という人物が得川郷を父から譲られたとする記録もあり世良田義季は絶対に『徳河三郎義秀』ではないとするのも少々冒険のような気もします。また、その庶子の頼有こそ何を隠そう『徳河三郎義秀』であると言えない事もありません。いずれにしても『徳河三郎義秀』を世良田義季とするからには当時の世良田近辺の中心地が得川郷でなくてはなりませんが、そのような記録は全く現存しておらず、否定的な材料ばかり目立ちます。そこで、思いきり結論づけてしまい、世良田氏と徳河氏は別系列の新田同族であった。と断定的に表現してしまいます。

 さて、その後の世良田氏の行方に付いては、次回。
 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
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