世良田氏の謎解きに挑戦(3)

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《世良田郷と得川郷》

さてお話の前に、世良田郷と得川郷というふたつのキーポイントについて、その位置関係をご説明しておきます。
ペーパー上で推論する学者が陥りがちな過ちに、地理的な矛盾を見落とすという事があります。世良田という地名と得川という地名は元々同じものであったとする考えの論文を読んだことがあるのですが、これを徳川氏研究の原点においてしまっては、それ以降の研究は大局で誤ることになります。
現地の詳細地図や各種の資料をあさってみたり、現地主義で、実際に現在の徳川地区へ行ってみて確認すると、現在は世良田地区の中にある徳川という場所は実際には世良田地区の中心地からは、わずかに南にずれているのです。しかも古い記録では隣接してはいても世良田郷と得川郷は、元々独立した別の村でした。現在の徳川地区は後に発展した世良田地区に取り込まれる形で一体化してしまいましたが、世良田義季がこの一帯を領有した当時は、全く別の村だったのです。つまり、ここでの結論は、「世良田郷と得川郷は別の村」と覚えてください。

《世良田地頭》

さて、よくよく考えてみますと、『らいおう御前』に相続させるとあった一帯にはなぜか得川の地名がでていません。たぶん多くの人の誤解は、ここから出ているのではないかと思います。これについて詳細をしらべてみました。地図上に相続させるとある地区を印して行くと『新田義重譲状』にある女塚、押切、世良田、平塚、三木、下平塚は、世良田郷からは西部一帯で、得川郷の方向ではありません。また『新田義重置文』にある女塚、江田上・下、田中、大館、粕川、小角、押切、出塚、世良田、三木、上今井、下今井、上平塚、下平塚、木崎、長福寺、多古宇、八木沼とは、一部不明な場所もありましたが、ほぼ現在の群馬県新田郡尾島町をすっぽり包んだ地域に隣接する新田町の南部、境町の東部を加えた広大な地域です。ただし現在の尾島町の中心地のある東部の岩松亀岡近辺や肝心の得川の地名は出てきていません。
当時の新田領地は、利根川を越えて現在の埼玉県深谷市北部にまで広がっておりましたから、世良田南部の得川地区が「らいおう御前」の相続地域に含まれていなくても少しも不自然ではありません。ただし多くの郷土史家は、現在の行政区域に考えがとらわれているために、尾島地区で、唯一得川地区だけが相続されないのは不自然であるとの考えで、「当然含まれる」と断定した研究がおこなわれており、これではせっかく世良田郷と得川郷は元々べつの地域と言った私の考えが見えなくなってしまいます。
さて長楽寺の資料に「世良田地頭御建立長楽寺」「地頭前参河守源朝臣頼氏」というのがあり、これらは、それぞれ世良田義季、世良田頼氏の事であろうと言われています。つまり世良田義季は世良田の地頭となり代々世良田を継いだとする確たる証拠となるわけですが、世良田義季が他の領地とりわけ得川の地頭となった記録は現存しておらず、世良田義季を得川義季とする根拠はないという事になります。なお、当時はまだ得川郷は無かったとする説もありますが、この説でも得川義季は矛盾すると断じています。
 つまり、ここでの結論は、「義季は得川郷を領有していなかった可能性がある」と覚えてください。

《徳河参河守》

ではなぜ現代の多くの歴史家は得川義季という名を断定的に使うのでしょう。そのヒントは『吾妻鏡』にありました。わたしの『ふじた史観』によると、徳川家康は、幼年を足利一族の今川家で過ごしており格式をよりどころとする今川家にとって先祖のとりわけ清和源氏の流れを学ぶ事は武芸のつぎに大切な武士の心得だったとしています。さすれば当然徳川家康は幼年期に『吾妻鏡』を深く学んだ事が容易に想像がつきます。その『吾妻鏡』のいたるところに『新田参河守頼氏』ならびに『徳河三郎』あるいは『徳河三郎義秀』という記載があります。「参河」とは、言わずと知れた「三河」の事で、徳川家康父祖の地です。これを読んだ竹千代少年は「そうか三河地区の守護は、新田頼氏か。これが我が祖に違いない。」と、この『参河守』の表記を三河守護と誤解したことが理解できます。
そして今川家に残る系図によると、この『徳河三郎義秀』と『新田参河守頼氏』は親子であるとありました。三河を相続するからには新田参河の父は『徳河参河守』であろう。つまりは世良田頼氏の父の義季は、徳河姓だったに違いない。そして新田には得川と名の付く地名があるから自らは得川義季と名乗っていたに違いない。という何段もの飛躍論法で、得川義季は作られていったのです。徳川家康がみずからを得川姓にせずに、徳川姓にしたのは、新田庄の地名の得川を参考にしたのではなく『吾妻鏡』の『徳河義秀』を参考にしたのですから、当然な話です。
さて、実はよくよく調べてみますと、世良田義季が、徳河参河守であるという確定した証明は未だなされていません。そのお話は次回。
 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
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