【風雲児新田義貞 7】

戻る
護良親王失脚
公家一統:
大化の改新でも明治維新でもそれは国の支配体系を根本から変革する大革命でした。ところがこの建武中興など名ばかりの鎌倉腐敗政権の延長でしかありませんでした。後醍醐天皇はじめその取り巻きの闘争意識はかなり次元の低いものでした。彼らにとって、もっぱらの関心事は、滅亡した北条の残した巨大な得宗領をいかに私有するかということだけでした。北条の持っていた領地を公家のものにする。それが建武の親政の中身で、それですべてでした。
上洛した新田義貞に後醍醐天皇による倒幕の恩賞の発表がまっていました。
「従四位、越後守、播磨大介、上野大介。」
すでに得宗領の多くは千種忠顕はじめ戦功のあった公家や正中の変で失脚していた者たちへの恩賞として発表されていましたが、千種忠顕の3国と56領地の恩賞などといった公家に対する派手な恩賞とくらべてあまりにも低い評価でした。気が付けば、それはひとり新田義貞だけの事ではなく、全ての勲功のあった武士が同様に低く抑えられていました。というより、身内に与え過ぎて、もう何も恩賞として与えるものがなくなってしまったのです。なにしろ足利高氏はじめ朝敵だったはずの多くの武家が寝返ってしまって、味方に対し「敵」が少なくなってしまったのですから無理もありません。これはあきらかに武家勢力に対する後醍醐天皇の挑戦的恩賞でもありました。
脇家義助(義貞弟)=正五位、駿河守
足利高氏     =従三位、伊豆・武蔵・相模守
足利直義(高氏弟)=従四位、遠江守
楠木正成     =正五位、河内・摂津守
名和長年     =正五位、因幡・伯耆守
赤松則村     =なし
菊池一族     =なし
それぞれが、それぞれの立場で、この恩賞に大いに不満でした。足利高氏は、後醍醐天皇より、天皇の名前の尊治より一字をうけ、足利尊氏と改名しました。これは執権北条高時より一字頂いて授かった高氏の名を捨て北条一族から決別し後醍醐天皇への忠誠を示すという尊氏苦心のデモンストレーションでした。しかし巷で「尊氏なし」と噂されるほど彼は親政の要職から完全にはずされていたのでした。
護良親王の不満:
ところで、今回の倒幕劇の直接の開幕戦は、護良親王の挙兵でした。親王の挙兵当初の計画では、父後醍醐の意志をついで幕府を倒し、自らの手で天皇親政を築くこととなっておりましたが、予定より早く後醍醐天皇が隠岐を脱出したため主役の座から降ろされた格好になり、実際に護良親王派に近い赤松則村や菊池一族へのないに等しい恩賞の沙汰としてそれは表面化したのでした。領土安堵などというのは、本来なら降伏してきた敵に対する温情程度の評価なはずです。
護良親王は、おおいに不満でした。王政復古急進派の護良親王がその不満をぶつける先は武家の代表として自負する足利尊氏です。足利尊氏は六波羅探題跡に奉行所を開設し全国の武家豪族を実質的に統率する形になっておりました。なにしろこれだけの大戦に参加しながらなんら恩賞の沙汰がない各地の武家豪族が泣きつくように足利尊氏を頼ったのですから当然の光景でした。
しかし護良親王には、それが足利尊氏の幕府開設への野望の現れ、「謀反」と映ったのでした。中央の実権の場から一歩遅れをとった護良親王は建武親政に参加せず、赤松則村(赤松円心)らとともに大和の志貴山にこもったのでした。
足利尊氏の不満:
新田義貞は中立をまもりました。というより彼は護良親王も足利尊氏も共に嫌っていたのでした。足利家の風下には絶対に立てないし、源氏再興の夢に護良親王の存在は最も障害です。義貞は足利尊氏が征夷大将軍を名乗ることを絶対阻止する構えをとり、護良親王の、征夷大将軍任命に賛同しました。武家が征夷大将軍を名乗る事は、名実ともに武家の頭領であることを意味したからです。そうなったら新田義貞の野望は完全に絶たれてしまいます。
征夷大将軍となった護良親王はようやく京の都へ凱旋しました。急進派の親王が征夷大将軍として京へ戻ったことは足利尊氏にとっては脅威でした。足利尊氏と護良親王の京でのにらみ合いが始まりました。
親王失脚:
不穏な空気のながれる中、突然護良親王は父後醍醐天皇により捕らえられ、足利尊氏へ引き渡されました。この奇妙な大事件は、名目として尊氏討伐の密書の発覚があり、それは事実ではありましたが、それだけでは、あえて宮廷の権威を落してまでも、わが子を死刑判決ともいえる足利尊氏への引渡しをおこない完全に失脚させる必要はなかったはずでした。
その裏に実は宮廷内の内紛があったのです。護良親王は実力ナンバワンの皇太子でしたが当時後醍醐天皇の寵愛を受け政治にまで影響力をもった准后の阿野廉子(あののれんし)にとっては実の子(恒良、義良、成良)の最大のライバルであったわけです。うとましく思うようになっていた後醍醐天皇、脅威を感じていた足利尊氏、急進派を嫌った新田義貞。
護良親王にとって味方はごく小数派でした。なんと護良親王は継母に追い出されるという少女マンガに出てくる哀れな皇子だったのです。
護良親王は、今は足利尊氏の弟の直義の治める鎌倉へと護送されていきました。不安定だった親政が、一気に崩れだす序章でした。
著作:藤田敏夫(禁転載)
戻る
尊氏足利尊氏