【風雲児新田義貞 6】

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全員集合建武親政
新田義貞の誤算:
さて、鎌倉を滅ぼすには滅ぼしたものの、新田義貞の計画表には成功するかどうかさえわからない鎌倉攻略以降の予定など、なにも書かれていませんでした。あるのは漠然と日本の政治の中枢を抑えた自分が、天下人になれるかもしれないという期待感だけでした。天下人のまず行う行政は恩賞問題です。
ところが、いざ鎌倉に踏み込んでみたものの新田義貞には鎌倉の治安回復という難題が待ち受けていました。なにしろ、鎌倉を焼きつくしてしまったのです。新田の軍勢が総出でかかっても、まだ人手は足りません。そこへきて、新田郷より遠路来た新田本隊には食糧確保という難題もありました。鎌倉には敗走した者や浮浪者の群れが幕府の兵糧の多くを持ちだしてしまっていたので、その調達に奔走しなければなりません。幕府の主だった者が戦死、敗走したのは当然として、実務の役人まで追い払われてしまったので、中央の実務経験のない新田勢は恩賞事務の為の体制作りが遅れていました。そこに、新田義貞の将来に大きく影響する大問題が発生しました。
新田軍の鎌倉突入の前、秘かに鎌倉を脱出した足利高氏の嫡子、千寿王を擁立して戦火のおさまった鎌倉へ到着した足利一門の細川三兄弟が「鎌倉攻めの総大将は千寿王」とふれまわり、勝手に恩賞事務を始めたのです。そもそも今回の戦いは源氏宗家足利高氏の命により源氏支流の新田義貞が千寿王を擁立しておこなったいくさであった。というのが、その大義名分でした。鎌倉在住だった足利家にとっては、ゆかりの役人を集めることなどたやすく、整然とした事務がおこなわれました。源氏嫡宗家として知られる足利家が大将か、鎌倉を落とした新田家が大将か、どちらがともつかぬままに倒幕に参加した多くの豪族たちが、とりあえず実力ナンバーワンの足利家のほうへも届出をと、戦功記帳へ出頭しました。たとえ新田家が源氏嫡流を説明したところで、現実に全国に大きな勢力領地をもち古くから源氏宗家をなのる足利家を疑う豪族はなく、また豪族達にとって必要なのは恩賞であり源氏嫡流をことさら疑う必要性もなかったのです。
新田一族は戦争に勝ちながらその功績を北条一門と深い血縁にある足利千寿王によこどりされた形になってしまったのです。まるで北条同族内の内紛に肩入れしただけのような結末でした。
上洛:
鎌倉も陥落し、ついに北条執権を完全に倒した倒幕軍はその中心となって戦った後醍醐天皇が京に戻り、いよいよ公家一統の、後に建武の親政と呼ばれた新政府作りにとりかかろうとしておりました。鎌倉の新田義貞にも上洛の勅命が下りました。
これは武家による政権を認めた鎌倉の地に、政変の立て役者を置くことで、源頼朝の再現をされないための後醍醐政権の画策でした。新田義貞にとってははなはだ不本意な上洛でしたが、他の倒幕功労者がすべて京にいる以上、みずからの恩賞問題の決着も含め上洛はやむを得ないことでした。
全員集合:
ここに、倒幕のこころざしをひとつにした勇将たちが京の都に全員集合しました。

後醍醐天皇(京都市出身45歳元天皇)
      隠岐より脱出、船上山より各地に号令。
護良親王(京都市出身25歳後醍醐長男)
      後醍醐天皇が隠岐へ流されている間、倒幕の中心的役割を果たし、各地に令旨を発した。
赤松則村(兵庫県出身56歳御家人)
      護良親王に呼応して挙兵、大軍勢で兵庫より京を目指した。
千種忠顕(京都市出身年不詳45歳位公家)
      後醍醐天皇と一緒に隠岐を脱出し公家でありながら武士団を率い京を目指した。
楠木正成(大阪府南河内郡出身年不詳40歳位豪族)
      各地の倒幕軍の先陣となり戦った。
足利高氏(神奈川県鎌倉市出身28歳治部大輔)
      赤松軍討伐とみせかけ突然反旗を翻し六波羅探題を攻略した。
新田義貞(群馬県太田市出身32歳鎌倉御家人)
      鎌倉を攻撃し執権北条高時を滅ぼした。
名和長年(鳥取県名和出身年不詳50歳位豪族)
      後醍醐天皇を船上山に守った。
(菊池一族は、その他とさせていただきます。あしからず。)
著作:藤田敏夫(禁転載)
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