【南風 5】南朝帝都奪還
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本来ならば、陽暦と陰暦の混合のような、年だけ西暦を使用するなどというのは誤解の元なので、使いたくないのですが、どうも南北朝においては、年号の扱いからして難しいので、ここでは、便宜上西暦を使用しています。ただし、陰暦と陽暦で、年替わりの誤差がありますので、あくまでも、西暦を陰暦とみなして使用しております。日本史ファンの皆様にとっては常識的ことがらではありますが、くれぐれも世界史との対比は、前後3年の誤差の範囲で、おおらかにみていただきますようお願いします。

神器

さて、足利尊氏の南朝帰順は、落ち目の南朝にとっては、天地がひっくり返るほどの重大事件でした。落ち目とはいえ、南朝の取り巻きは、れっきとした公家で構成されており、京の北朝の公家達と親密な血縁関係にありましたので、この機会を利用し、北朝での低い身分からの脱却を計ろうとする南朝派(旧持明院統)の公家たちと結束し、京での勢力回復を計画しました。
京の南朝派、洞院公賢(とういんきんかた)を臨時代行として、諸行事の取りまとめをはじめ、朝廷としての指示を遠くからコントロールはじめたのです。そして、ついに1351年12月23日。光明天皇以来北朝に伝わる神器(南朝は、これをも疑神器としてきた)を奪取してしまいました。

七条大宮の戦い

1352年2月26日。後村上天皇は、在所の賀名生を出発して28日、摂津住吉に到着しました。しばらく滞在したのちに閏2月19日、山城の男山に入り、いよいよ宿願の帝都奪還作戦を決行したのでした。
南朝の主砲は、いまや南軍の総大将の地位を確かなものとする楠木正儀。対する北朝で足利尊氏の留守を守るのは、嫡子足利義詮でした。
閏2月20日の七条大宮で戦いは、戦さに不慣れな足利義詮に対し、幼少より戦場で育った楠木正儀の一方的な勝利でした。まして、足利尊氏が、南朝を認めている以上、楠木軍こそが、官軍です。足利義詮には、戦う明文がないという不利がありました。総崩れした足利義詮は、京都を放棄し、近江へとのがれたのでした。

北朝の危機

北朝の崇光天皇は、南朝により捕らえられ、光厳上皇、光明上皇とともに男山に拉致されてしまいました。京では、一時的に北朝が、完全消滅するという、おどろくべき事態が発生したのです。そののち彼らは、南朝の拠点を転々と数年間、幽居させられたのでした。

足利義詮の決意

足利尊氏の南朝懐柔策のはずであった南朝帰順がまねいた今回の事件に反省した足利義詮は、1352年閏2月23日、近江にて、和平の決裂を宣言すると、3月9日までに、足利軍を立て直し、本格的な反攻に出ました。足利軍の予想外の立ち直りに驚いた南朝は、もともと軍事力には劣っておりましたので、早々に、京を退陣し、足利軍は、帝都の無血開城を成功したのでした。いよいよ男山総攻撃の日が、近づいてきました。
著作:藤田敏夫(禁転載)
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