【南風 4】足利直義
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南北朝和平運動

権勢を誇った高一族が滅び、天下は、実質上このいくさに勝利した足利直義の手に握られました。そうです。教科書には出てこない、幻の足利直義時代が、おとづれたのです。
ところで、足利直義、政争に利用する魂胆が、みえみえとはいえ一度は南朝に帰順したわけで、内紛が一段落したついでに、愁いをなくす目的で、南北朝の和平交渉を、南朝の楠木正儀(楠木正成の次男、正行の弟)と、秘密裏に進めたのですが、南朝の急進派、北畠親房(また、でてきてしまった!!)の強固な意見で、破談となってしまいました。そののちの南北朝の運命に微妙な影響を与えた小さな出来事でした。

兄弟の確執

実力で、天下を取った足利尊氏を名目将軍の座においておくには、足利直義には、実力不足でした。中央人脈に強い尊氏は、京へ戻るとたちまち幕府内の実権を回復し、武力の足利直義、政才の足利尊氏と、たちまち都に二大派閥ができあがってしまいました。立場を苦しくした足利直義は、再起をはかるべく北国経由で、鎌倉へ逃れる運命になったのでした。
1351年6月、今度は、足利尊氏が実弟を討伐するために、関東へ遠征です。すこし前、実子を討つために西へ向い、今度は実弟を討つために東。尊氏が将軍になる前には一枚岩でしっかり腕を組んでいた足利一族の、実りのない戦いでした。

足利直義の死

足利直義の手で散った護良親王の怨霊漂う鎌倉の地は、まるで直義の到着をまっていたかのように、その地獄の扉をあけ、1352年2月26日。足利直義は、鎌倉にて、突如病死してしまいました。
注:足利直義の死は病死として発表されましたが、実際には足利尊氏の指示により毒殺されたのではないかと言われています。
たぶん病死ではないのではないかという点では私も同意見ですが、殺害した相手に疑問があります。
足利尊氏直義兄弟は、幾度かの対立がありましたが、深刻な対立があっても、命を奪いあったことはありませんでした。今回も、すでに足利直義は完敗しており、とらわれの身であるのに、あえて殺害しなければならない理由は、足利尊氏には無かったはずです。
実はこの日はちょうど一年前に足利直義に敗れた高師直らの、まさに一周忌の日にあたるのです(閏月の違いはありますが)。従って高一族による弔いで殺害された可能性というのも考えられます。もちろんこの説は、私の説ではなく古くからある足利直義死亡の謎解き説のひとつにすぎません。

またまた南朝

さて、足利尊氏は、京を出発するにあたり、心配な事がいくつかありました。京近辺の不穏な動きをどう牽制しながら、留守の平穏を保つかという事でした。代表格に、いまだ近隣に根強い人気を保つ南朝の存在がありました。必ずしも北朝にこだわっているわけではない足利尊氏は、足利直義の南朝帰順を参考として、同じ方法で帰順という、最大敬意の挨拶をおこない、京をたちました。もっとも、足利尊氏にとって挨拶程度の意味であっても、穴生の南朝にとっては、天下に係わるほどの重大事件でありました。 足利直義を追って東へ向かった足利尊氏の留守を待っていたかのように、南朝の妖霊達が、再び首をもたげてきたのでした。
著作:藤田敏夫(禁転載)
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