1.足利尊氏と内通していた。
楠木正成は、湊川出陣の直前に、朝廷へ尊氏との和睦を上奏して却下されております。このとき、こともあろうに、ともに戦ってきた新田義貞を裏切るように薦めているのです。これは足利尊氏と内通していたなによりの証拠ではないでしょうか。ともに後醍醐天皇への忠義を誓って戦ってきた身内を裏切るように天皇に上奏するなど、「忠臣」とは似ても似つかぬ、仲間に対する裏切り行為です。新田義貞に後醍醐天皇をないがしろにして、私利私欲に走っているような態度が見られるのならまだしも、楠木正成は、そうは言っておらず、あくまでも新田義貞より足利尊氏のほうが、強いからという理由で、上奏しているのです。
もしこの楠木正成の上奏を後醍醐天皇が受け入れ、尊氏と和睦し、朝廷が足利尊氏を武家統率に利用した場合は、足利一族の利権をすべて追認することとなります。もし楠木正成が、足利尊氏と内通していなかったとするならば、その立場上、楠木正成は最悪の不利益をうけることになるばかりか、護良親王の二の舞になって、失脚する危険性すらあります。戦後よほどの恩賞の裏取引があったからこその上奏と考えるべきでしょう。
2.どの戦闘も常に遅れて到着した。
寝返りの機会は足利尊氏が九州に敗走するころから伺っていたと考えられます。尊氏が海路を逃走していく前、今津浜、打出ノ浜と、二度も反攻にでていますが、どちらの戦いも互角で、わずかに新田軍が優勢になった頃合をみはからったように楠木軍は出没しています。つまり楠木正成は、勝てる戦いに、いずれも故意に遅刻しているのです。しかも打ち破った足利軍を追う気配もなく、その戦い方はそれまで大活躍していた楠木正成からは考えにくい不真面目さでした。
3.湊川にも遅刻するつもりだった。
楠木軍が湊川に到着するのは足利軍が上陸作戦を決行する前日でした。その間、充分な時間があったにもかかわらず、楠木軍はぎりぎりに到着したのです。なぜでしょうか。
実はこのときでさえ楠木正成は、遅刻する予定だったのではないでしょうか。なんらかの手違いか、新田軍に援軍の進軍の遅いのを疑われてやむなく一日早く到着してしまったと考えれば、この湊川での不可解な楠木正成の戦死の謎がとけます。
つまり、楠木正成の計画では、ここでも新田足利両軍の戦いを、戦場に遅刻したことを理由に傍観し、優劣がはっきりしてきた時点で優勢の側につくという日和見をするつもりだったのです。
戦場での楠木正成の位置は陸上から来る足利直義軍を阻止する構えで、足利尊氏の海軍とともに主力の新田義貞軍を挟み打ちにする構えになっていました。もしここで足利軍、新田軍の戦闘が開始されれば、楠木正成軍は山の上から傍観していればよいことになります。
なぜなら足利尊氏の主力が上陸する際には陸上よりの援軍がどうしても必要になります。そのための足利直義陸上軍ですから、主力の戦闘が開始されればそちらへ向かうはずだからです。そこでもし官軍が劣勢になった場合は新田義貞軍の背後をついて寝返れば足利軍の完全勝利です。
しかし楠木正成は新田義貞の全軍が突如東へ移動するという予想外の行動に、敵軍の中央に孤立してしまいました。なぜ戦闘の前に新田義貞軍が大移動をしたのでしょうか。従来、足利軍の先陣を追って軽率な行動をとったとされていましたが、足利尊氏の主力が海上に見えるのに、まるで敗走するかのように移動した理由は、楠木正成の寝返りを察知したためと考えられないでしょうか。軽率にも足利軍の先陣を追ったからと言うのなら先陣を楠木軍の方へ誘導するかのように東へ回り込み敵先陣との激突を故意に避けたのはなぜでしょう。
楠木正成は新田義貞に東へ移動されて、初めて自分の計画が新田義貞に露見したことに気付きましたが、時おそく、足利尊氏に寝返りの申告をする暇も無く新田義貞により誘導された形の足利全軍により四方を包囲されあっけなく破れたのでした。
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