珍説 楠木正成
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これは楠木正成が国家的英雄とされた戦前の皇国史観の根幹といえる湊川の戦いについて、可能性としての別のとらえかたを試みるものですので、いたずらに楠木正成の偉勲を貶めることが目的ではないことをお断りいたします。

激動の時代を、それぞれが最も良かれと思う生き方で、自由奔放に駆け回った、日本が最も自由で生き生きとしていた時代の代表的な戦士としての楠木正成という私の視点でみた楠木像です。英雄に好敵手あり。楠木正成という好敵手がいなければ、きっと足利尊氏の偉業は無かったことでしょう。

楠木正成の湊川の戦いとは
はじめに、楠木正成の湊川の戦いとは、どんなものであったのかを解説します。
楠木正成は、後醍醐天皇の勅命を受けて、わずかな手勢で鎌倉幕府と戦った忠臣でしたが、足利尊氏が天皇に背き、敵対して九州より攻め上ってきたおりに、天皇のために決死の覚悟で、現在の兵庫県神戸市の湊川に向かいました。
湊川では海上の足利尊氏と、陸からの足利直義(足利尊氏の弟)の挟み撃ちにあい、新田義貞が敗走したにもかかわらず、最後までとどまって戦い、弟とともに「七生報国(しちしょうほうこく)」を誓い合って果てたと言われ、戦前は皇国の最大の英雄と慕われました。

この「七生報国」の精神は、昭和の日本軍の若者にも受け継がれ、第二次世界大戦のおりには神風特攻隊が編成され、多くの若者が「七生報国」を唱えつつ、お国のために、尊い命を投げ出して戦いました。

これが楠木正成が湊川で散ったお話の本筋です。歴史の諸資料には、これをことさら否定するものはありません。ですから私も歴史の誤りとして、声高に否定しようとは思わないのですが、でも歴史の真実というのは、 いろいろな角度から眺められてはじめて到達する物であるとも感じています。
そこで「こっちが真実」という意味ではなく、こんな角度から別の見方をしてみた、というお話を書かせていただきたいと思います。

ふたつの別々の視点で考えた「珍説」です。それぞれの説は、お互いに補完せず、むしろお互いを否定している部分が多い内容になっております。

珍説その一:楠木正成は湊川では勝てると信じていた
珍説その二:楠木正成は湊川で寝返る予定だった
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