【鎌倉滅亡悲話(9)赤橋守時の場合】
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鎌倉の防衛軍の中で、巨福呂坂の要害を防衛するのは執権赤橋守時を大将とする最強の軍勢であった。一方の新田軍は堀口貞満、大島守之らのこれも新田義貞側近の精鋭であった。両者は一歩も引かず、激戦が幾度となく繰り返された。赤橋守時は冷静沈着な男であったので、その判断力たるや次々と見事な指揮の元、敵を撹乱し、その戦略知略は見事なものであった。
巨福呂坂は両崖であり、その両方の崖の上に弓矢の兵をいくばかりか置き、新しい矢の補給を絶やさずにしかも、崖の頂上からは崖によじ登ろうとする敵兵めがけて石を投げ落とすという戦法で味方の損失は少なく、巨福呂坂の坂道は矢に倒れた敵の兵の死骸にあふれていた。
「殿、ここでの敵の損害は真に大きいものがございます。巨福呂坂に敵をくぎ付けしておれば、いずれ敵の大将もかなわぬと逃げ出しましょうぞ。」
配下の南条左衛門高直が、得意そうに赤橋守時につげた。しかし、赤橋守時は、深くため息を付いて南条左衛門高直に呟くように言った。
「通常の戦であるなら、さもあらん。見事な勝ち戦と世間から誉め讃えられようが、わしがここにいるのも、すべては得宗殿のさしがね。なぜに鎌倉の総大将であるべきこの執権が歩兵のごとく先兵の役を努めねばならぬのか。これもみな婿殿の御恩を忘れた振る舞いのせいじゃ。」
赤橋守時の妹の登子は、事も有ろうに鎌倉に謀反して六波羅探題を滅ぼした足利高氏のところに嫁いでいた。京都で高氏、鎌倉で守時が同時に挙兵し、得宗家を滅ぼす算段でも出来ていたのであろうと、今朝方も北条高時に叱責されて来たところであった。たしかに赤橋守時は妻に命じ、密かに足利屋敷にいた赤橋登子とその子らを逃がす手伝いをするよう命じてあったので、万一得宗の手の者に捕縛されようものなら言い訳は聞かない。しかし、それと鎌倉への忠誠心とは別物であった。
「北条一族の命運が、どのような結末を迎えるのか、この目でしっかりと見据えて見たいものだが、たとえ勝ち戦となろうと、この赤橋の命は長らえる事も叶うまい。なれば先陣を切り果てる事で得宗殿の動揺もおさまることであろう。」
赤橋守時は、勝っても負けても身の置きどころの無い自分を感じていた。南条高直に忠義に厚い手勢を集めさせ、自ら先陣を切って巨福呂坂から山内路むけ打って出た。
鎌倉軍の本来の大将たるべき執権赤橋守時の哀れな最期であった。そしてそれは、鎌倉防衛軍が、雪崩のように崩壊していく最初のひと崩れであった。
 
著作:藤田敏夫(禁転載)
 
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