【鎌倉滅亡悲話(6)長崎勘解由左衛門為基の場合】 |
極楽寺の切り通しを防衛に当たっていた大仏貞直の軍勢に加勢しようと向かった兵の中に長崎三郎左衛門入道思元(ながさきさぶろうざえもんにゅうどうしげん)と、長崎勘解由左衛門為基(ながさきかげゆざえもんためもと)親子があった。
「父上、ご覧下され。大殿様のお屋敷が燃えております。」 長崎為基が指す方角をみれば、おりからの強風にあおられて鎌倉市中は猛火の中にあった。その中でもひときわ高く炎が上がっているのは北条屋敷の方角であった。 「為基よ、大殿様の警護に戻るぞ。」 長崎思元は、為基を促すと、わずかな手勢を引き連れて北条屋敷の方角に向かった。しかし、この一隊を新田本隊の軍勢が見とがめた。 「あれは名のある敵兵と見える。是が非にも打ち取れ。」 新田軍が一斉に長崎父子の手勢に襲いかかってきたからたまらず、混戦の中を父子は双手に分かれてしまった。 「父上、父上。」 長崎為基が大声で呼んだが、すでに敵の兵に取り囲まれた長崎思元をどうすることもできなかった。長崎為基が馬上で父を救おうと敵の兵に向かいかけると、その兵の中より長崎思元の声がした。 「何を迷っておる為基。早く行け。今は名残を惜しんでいる時ではない。じきに冥土で再開するならば、別れは一時の事ぞ。」 その声に長崎為基は、溢れる涙をてのひらでひと拭いすると、父長崎思元に向かって声を荒げた。 「父上、さらばでござる。死出の旅路の山路まではお待たせしませぬぞ。」 そして馬にムチを入れるとその場から離れた。群がる敵を長崎為基は、馬上から切り捨てながら進んだ。長崎為基の手にある太刀は名刀の誉れ高い「国行」であった。この太刀は敵のかぶとまでも断ち割るほどの威力で、さしもの群れた敵も恐れをなして誰一人近づく勇気のある者はなかった。やがて由比が浜の大鳥居の前までたどり着いた長崎為基は、地面に刀をさし立てて、仁王立ちに敵の大軍をにらみつけた。その気迫に押され、誰一人近づこうとする者はなかった。わずかに遠くから矢をいかける者がある程度で、新田の大軍勢は、たったひとりの長崎為基に攻撃の足が止まってしまったかのようだった。 「ふん、度胸の無い田舎さむらいだ。」 長崎為基は、一計を案じて遠矢が当たった振りをしてその場にうずくまった。その姿に惑わされた新田の軍勢がおそるおそる近づいてきた。うずくまっていた長崎為基が、その様子によろいの間よりにんまりとすると、すっくと、突然立ち上がり、さし立てた名刀「国行」を取ると振り回して叫んだ。 「くたびれてうたた寝していたに、ひとの昼寝の邪魔をする者はだれだ。その首をかききってやるから前へいでよ。」 すぐ近くまでよって出ていた敵兵は、飛び跳ねて仰天し、慌てふためいて逃げだした。あとは太刀を振り回す長崎為基がひとり残っただけであった。 「なぜ逃げる、弱虫ども。引き返してわれと太刀を合わせよ。」 恐れをなした敵兵は、ただ遠巻きにするばかりであった。長崎為基は、振り向きざまに路地に隠れては、敵兵が近づいた頃合を見計らって飛び出し、手短な敵の首を切り捨てた。そして逃げる敵を後目にふたたび路地に隠れ、これを繰り返しつつ敵をけちらし敵軍を翻弄していった。まさに孤軍奮戦の様であった。 こののち長崎為基がどうなったかは誰もしらない。ただ長崎為基の持った名刀「国行」は後の世に明石松平家に国宝となって伝わるという。 |
著作:藤田敏夫(禁転載) |
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