【鎌倉滅亡悲話(4)大仏貞直の場合】
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鎌倉を攻撃する新田軍の最大の障害は鎌倉に入る狭い切り通しを突破しなければならない事であった。鎌倉は三方が山、一方が海の天然の要害にあり、ここを突破しないかぎり鎌倉市街に入り込み北条高時を討つ事は不可能であった。巨福呂坂(こぶくろざか)、化粧坂(けわいざか)、大仏坂(だいぶつざか)、極楽寺坂(ごくらくじざか)の狭い切り通しが、その唯一の通路であった。鎌倉を防衛するには、この狭い道を確保するだけでよかった。新田軍は、当初主力を化粧坂に向けた。大将の新田義貞と、弟の脇屋義助の率いる新田本隊は化粧坂を全力で攻撃した。しかし、その防衛線は堅く、いたずらに兵を失うばかりであった。大仏貞直(だいぶつさだなお)の防衛する極楽寺坂の攻撃に当たったのは大館宗氏と江田行義だった。ここも猛将と呼ばれた大仏貞直の前に新田軍は進みあぐねていた。最初の突破口を開いたのは、南に回り稲村ヶ崎の守備を破った新田義貞本軍であった。一度突破口を破られた鎌倉は、もろかった。外には強固であっても内にはもろい鎌倉防衛の地形の欠点が一挙に露呈してしまった。稲村ヶ崎を破った新田軍が最初に向かったのは極楽寺坂の後方だった。後ろに回られ挟み撃ちとなり、孤立してしまった大仏貞直軍は哀れであった。恰好の餌食を見つけた鷲が上空から兎を攻撃するごとく大仏貞直軍を徐々に追いつめていった。
「はや鎌倉様の館も焼け落ちてございます。殿、もはやこれまでと見えますれば、先に失礼つかまつります。」
大仏貞直の重臣達は、覚悟を決めて思い思いに腹を切って果てた。
「何を愚かな事をいたすか。」
次々と腹を切る家臣を大仏貞直が諌めた。
「腹を切るのは敵を目の前にした戦場の武士のなすべき事ではない。それは卑怯者のする事だ。武士は戦って果てることこそ武勇の誉れなるぞ。わしが手本を見せてやろうほどに、勇気あるまことの武士は後に続け。」
そういうと大仏貞直がは大将自ら馬にまたがって新田軍の中へ孤軍突入していった。
「殿に遅れをとるな。続け。」
大仏貞直の雄姿に奮い立った大仏軍は大仏貞直とともに無謀な突撃をしていった。突撃先に待ちかまえていたのは大島、里見、額田、桃井らの軍勢だった。大仏軍の死にものぐるいの奮戦にさしもの大軍もひるみ大仏貞直は、優勢に戦いを進めた。
「我に続く者はいく名ぞ。」
大仏貞直が近くの兵に尋ねると、
「もはや60騎程度と思われます。」
と答えた。
「うむ。このような雑兵と戦って命を捨てても無益だ。よし、このまま残った者で敵の大将の首を取りにまいろうぞ。」
わずかに残った兵は、おおとときの声をあげると、敵の大将が控えていると思えるあたりをめがけ敵の軍勢の中を疾風の如く突撃していった。
「殿、あれに見えるは敵大将の舎弟、脇屋義助にございます。」
「ようし、敵に不足無し。あの者の首を冥土の土産にもらいにいこうぞ。」
大仏貞直をはじめとするわずかな軍勢は、まるでいくさを楽しむかのように陽気に雲霞のごとく一面にひしめく大中黒の旗を持った大軍の中を進み、やがて大波に呑まれるごとく消えて行った。
ここでは大仏氏の読みを「だいぶつ」と書いておりますが、一般には「おさらぎ」と読まれることが多いようです。ただしわたしは根拠が薄いという理由で、「だいぶつ」とあえて書きました。このお話については、いずれ書かせていただきますのでご期待ください。
 
著作:藤田敏夫(禁転載)
 
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