北斗の星、千葉氏伝(3) |
《村岡忠常(むらおか・ただつね)》 |
村岡忠常はやがてその子孫が繁栄する事になる千葉の地に移住してきました。彼は、開拓の領民を手厚く保護し、善政を敷いたおかげで、たちまち未開の原野は豊かな穀倉地になり、近隣でももっとも豊かな新田となっていきました。そのなかでも下総北部の相馬(そうま)の地はもっとも開け、近隣からうらやましがられるほどに繁栄しましたが、うらやむばかりでなく、露骨にここを狙う者さえ次々と現れるようになりました。 特に父祖が争った平国香系の平正度は、特別村岡忠常にライバル心を燃やしておりました。平正度は、武力では村岡忠常に勝る力を誇示しておりましたので、何かにつけ領地に介入する口実を作ろうと嫌がらせをしておりました。下総国府の受領(ずりょう)をそそのかし、相馬に対して重税を課して、村岡忠常が国府と対立するよう仕向けてきたのもそのひとつでした。 村岡忠常の執事の千田入道安慶(ちだにゅうどうあんけい)は、血の気の多い人物でした。 「殿、もはや我慢なりません。相馬の農民からは、これ以上の重税にはとても耐えられぬと重ねて嘆願が参っております。われわれ坂東武者は常に農民と苦楽を共にする者、朝廷の権威を傘にきた国府の暴挙や、それをそそのかす隣国には農民の側に立って断固戦うべきかと存じます。」 しかし、それを制して村岡忠常は言った。 「いや、いかん。将門殿の先例にあるごとく朝廷への反逆は、戦乱をもたらす。むやみに戦乱をおこしては重税よりも農民達を苦しめる事になる。」 しかし、彼の望みとはうらはらに、下総は徐々に不穏な空気に包まれていきました。重税に苦しむ領地の農民達が、村岡忠常の出馬を促すがごとく各地でむしろ旗を立てて蜂起し、それを鎮圧する名目で常陸介平正度や安房守惟忠らの軍勢が次々と村岡忠常の領地に介入する軍を派遣してきたのでした。 万寿4年(1027)、ついに戦端は、執事千田入道の家臣が常陸介家臣と小競り合いを始めた事から始まり、一度に下総上総全土を巻き込む大乱に発展してしまいました。もはや村岡忠常も出陣を余儀なくされ、みずから軍を率いて上総国府になだれ込みました。将門の乱以来の関東の大乱、忠常の乱は、こうして始まったのでした。 村岡忠常には、彼を慕う農民達が従い、武士団と農民を含めた異様な熱気を持った強大な軍ができあがりました。こうして下総上総での戦いは一方的に村岡忠常軍の勝利となり村岡忠常は、ついに下総、上総全土を掌握する事に成功したのでした。 「国府を襲った朝敵として朝廷から追討の綸宣が坂東の武士団に出されたとの事で、我らの領地を狙う隣国が、この機会を狙って本格的な攻撃準備を整えていると聞きます。とくに安房守惟忠は、先年の上総侵攻の時に大量の兵糧を奪い味をしめており、再度の攻撃は時間の問題かと思われます。この際、敵の準備が整う前の先制攻撃を仕掛けてはいかかでしょうか。安房軍に侵略され田畑を荒らされた上総一帯の者達は、是非にと願う嘆願を出しております。」 執事千田入道は性急な男でした。しかし安房を攻撃すべきというその説には説得力がありました。国府を襲った以上、必ず朝廷からの討伐軍がやってくる。その時に最も驚異になるのは後方から狙っている安房軍であることは、あきらかな事でした。 「自領を守る為である。やむを得ないだろう。しかし領地以外の戦局の拡大は極力おさえねばならない。狙うは先年上総の領民を苦しめた安房守の首ひとつ。決して安房の領民の財産を奪ってはならぬ。」 村岡忠常は、家臣にそう念を押したうえで安房への総攻撃を指示しました。余勢を買って安房国へ突入した村岡軍は無敵てした。またたくまに安房を占領した村岡軍は安房守惟忠を焼殺してから悠々と引き上げていったのでした。 村岡忠常の武名は、関東各地に鳴り渡りました。将門の再来。だれもが忠常をそう呼び恐れました。近隣の諸豪は、警戒し軍備を整え、村岡忠常と決戦に備える事を怠りませんでした。 長元3年(1030)、ついに常陸介源頼信が朝敵成敗の大義名分を持って下総上総に大侵攻を開始しました。戦乱はどちらが勝利するでもなく長く続き、領民は疲弊し、豊かだった下総上総の領地は次第に荒廃していきました。 「このまま戦えば常陸介に勝てるかもしれぬ。現に各地で常陸軍を我が軍は押し気味に戦ってはおる。しかし、踏み荒らされたあの農地を見よ。あれは我が父が農民とともに手にまめを作って開墾した農地だ。しかも、今後の農業経営に支障をきたすほどの戦死者も出ている。」 この果てない戦を愁いた村岡忠常は、ついに朝廷に降伏する形で源頼信との戦を終息させようとはかりました。朝廷にしても、何とか仲裁をしようと試みていた時期だけに、この村岡忠常の降伏を歓迎し、源頼信に軍を撤退せよとの命を下し、ようやく下総上総から戦の火は消えました。 朝廷の命で上洛の途についた村岡忠常は、途中、美濃国蜂屋荘で、あえなく病死しました。一説には、乱の原因となった国府の暴政を暴かれると危惧した役人達により毒殺されたとも伝えられます。 こうして常陸、下総、上総、安房をまきこんだ忠常の乱は、忠常の死とともに終息したのでした。 |
著作:藤田敏夫(禁転載) |
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