【不屈の田中正造伝:11 谷中村哀史】

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明治35年の夏、相変わらず山林の無制限伐採が続けられた足尾の山から大量の土砂が流れ、渡良瀬川を2度にわたる例年にない大洪水が襲った。渡良瀬川流域では、多くの家屋が浸水する大被害が発生した。しかし、その洪水が、奇跡をおこした。洪水の規模が大きかったのが幸いし、昔のような沃土を運ぶ洪水となったのであった。鉱毒で汚染された土壌を覆った沃土により、農地は再生し、通常の農地ほどに回復した。
その年の12月、知識人達による「鉱毒解決意見書」が発表された。足尾地域の伐採を禁止し、鉱山の用材は他所から調達すね事。大規模な植林を行う事。完全な排水処理設備を整備する事。完成までの間は鉱業停止する事。という内容の物であった。田中正造の孤独な訴えを狂人の極論と内心軽侮していた知識人達が、自ら田中正造の意見に近ずく発言を始めたのであった。
しかし、これまでの経過からみて、政府がその一部でも採用する事は考えられない事であった。そのころ、すでに政府の鉱毒調査委員会が極秘に作成した計画は、全く違う視点に立った物であった。
渡良瀬川の洪水の主因は利根川からの逆流にあった。増水した渡良瀬川の水が利根川に阻まれて逆流するのが最大の原因であった。この、渡良瀬川の利根川合流点の手前に巨大な遊水池を作り、渡良瀬川の洪水をすべて流し込む事で、流域住民の被害を根絶させ、しかも鉱山経営は今まで通り続けさせるという、全てを一挙解決させる妙案を鉱毒調査委員会が考案したのであった。内密に計画されたこの事業を知った田中正造は、ふたたび激怒した。鉱毒調査委員会は、鉱毒根絶が目的で設立されたもの、それを洪水問題とすり替えようとは何事かと怒り狂った。田中正造は、さっそく埼玉県の川辺村と利島村に出かけ、極秘裏に進められていた計画を村民に暴露した。
埼玉県が故意に堤防修復を行わずにいる本当の理由を知った村民は、この田中正造の警告に直ちに反応した。川辺村、利島村は、渡良瀬川の堤防が完全に補修されている限り大規模な洪水被害に見舞われる事もなく、豊かな穀倉地が保証される土地であった。つまり遊水池計画は川辺村、利島村の両村にとっては、不利益なだけで、なんら利益になる話ではなかったのだ。両村ではただちに反対決議を行うと、ただちに埼玉県に対して堤防補修の実行を迫った。立場は埼玉県知事にしても同じであった。別段悲劇的な被害もない埼玉県で、県内の二村を潰す事業に賛同するわけにはいかなかった。県知事は遊水池計画には関与しない事を言明し、村民からの堤防の補修工事の要求にも同意した。以後、この地域は堤防工事のおかげで鉱毒や洪水の被害から数年で立ち直り、以後豊かな繁栄を続ける事になる。
しかし、もう一村、政府の遊水池候補となっていた村があった。栃木県の谷中村である。鉱毒調査委員会は、川辺、利島両村の遊水池化を断念すると、この谷中村一ヶ所に的を絞って遊水池計画を練り直した。
埼玉県知事と違い栃木県知事はこの計画に積極的であった。足尾鉱山との知事の癒着は誰の目にも確かな事であった。しかし、田中正造以来の良識の府である栃木県議会は、明治36年1月16日に知事の提出した谷中村買収原案をただちに全会一致で否決した。同年12月、ふたたび提出された同案も、古河の圧力にもめげず議会は拒否した。しかし、栃木県議会が屈服するのに時間はかからなかった。明治37年12月10日、再度提出された谷中村買収案を否決しようとしていた議会を知事は、その権限で秘密会とした挙げ句、50名の警官を室内に入れて議員を脅迫するという手段で、その日の深夜、ついに、強引に可決させてしまったのであった。維新前、下野内で、最も裕福な村と言われた谷中村の3000人の人々の、悲劇の幕開けの日であった。
この頃、谷中村では、川辺村、利島村に起きたような反対運動は全くなかった。度重なる洪水で壊滅的に決壊した堤防、大量に流入した鉱毒、村人すべてを巻き込んだ詐欺行為で村の経済を破綻させてしまった不良地主、村長の横領事件など、村人は立ち直る余裕も与えられないほどうちのめされていたのだった。遊水池計画を有利に進めたい栃木県知事は、この谷中村の被害に、一切の援助を拒んだ。飢えた農民が自滅するのを傍観するという非人間的な態度を取ったのである。明治37年、飢えに苦しむ農民に対し、近隣からの人道的な援助さえ禁止する措置を取った。
明治37年7月、63歳の老活動家田中正造は、この崩壊しかけた谷中村に入った。絶望感と猜疑心でよそ者を受け入れる事の出来なくなっていた村人の目は田中正造に冷たかったが、正義に燃える田中正造は、草鞋にすげの笠という出で立ちで、毎日村の中を歩き回り、圧力に屈しそうな村人を励まして歩いた。村人からも受けいられる事無く、そして、わすがに残った田中正造の理解者が、無意味であると制止するのも振り切り、孤独の戦いを続けた。もはや絶望的に崩壊した村を守る理由などどこにあるのか。補償金で豊かな土地に移転するほうが、どれほど村人に幸福か。識者の大半が田中正造の行動を、村人の幸福を考えぬ扇動行為と受けとめた。
生活苦から、坪単価で、はがき2枚分程度のわずかな補償金を受け取って逃げるように村を後にする者が続出した。しかし、その補償金の大半は、莫大な借財の弁済に当てられ、しかも、彼らの行く先に土地は無かった。代替地として用意された県北の未開の原野は、農業を行えるような土地ではなく、それでも何とか定着しようと試みる移民も、土地の農民が激しく拒絶した。他の土地も、約束に反して地主の私有地であった。自作農であった人々が、一夜にして最下層の小作農に転落してしまったのである。北海道の開拓地へ移住した者もあったが、結局は大半が離散して都市貧民と堕ちていった。
谷中村に住みつき、村人となる事でようやく村人からの信頼を得た田中正造は、勢力的に各方面に働きかけた。政界に言論界にと、繰り返し谷中村に対する政府の不正義を訴えた。そして、谷中村問題を管轄する内務大臣に原敬が就任した。明治38年、古河鉱業設立一周年記念に副社長として出席した原敬は、谷中村抹殺を指示した。地図の上から、谷中村の名を正式に消させたのである。形式的には、隣接の藤岡町に吸収合併という形が取られ、村は、おおやけの資料から消滅した。荒れるにまかされた堤防の修復を、わずかに残った村人が総出で必死に行ったが、辛い仕打ちに戦う村人に、追い打ちをかける洪水がふたたび村を襲った。
明治40年1月、素手で村を守る村人に政府は移転料無しの残留地強制収用を認める告示を発した。移転交渉無しの強制立ち退きを実行する事ができるなら、村人を排除するのに障害となっていた物は何も無くなる。やがて来る村の完全破壊に、村人は絶望し、また村の存続を支援していた人々もすべて手を引いた。谷中村の窮状を見かねて、農業適地を斡旋する事が目的の移転事業と言明していた政府が、自らその嘘を明らかにし、古河市兵衛の為に谷中村を廃村とする事のみが目的であった事を公式に認めたのであった。
この究極とも思える絶望の中で、なお不屈の男、田中正造は、谷中村のわらぶき小屋から動こうとはしなかった。

《小休止》

●渡良瀬遊水池と足尾鉱毒●

以前、北海道に住む私の連載の読者の方から「栃木のあゆみ」という資料が送られてきたことがありました。なぜ北海道から「栃木」なのか疑問に感じられるでしょうが、北海道の開拓には栃木県からも多くの人が行っており、いまでも当地に栃木の名が付いた開拓地が現存しているのです。
その栃木地区の歴史をつづったものなのですが、その栃木地区の歴史を読むと、渡良瀬遊水池の計画の犠牲になって立ち退きを迫られた住民の多くが北海道に新天地を求めて移住して行った様子が詳しくかかれています。たいそう苦労した様子がうかがえ、行政の横暴の前に生活の全てを奪われた弱い立場の住民を思うと、繰り返してはならないという強い気分にさせられます。
ところで、この資料には、少しばかり失望させられたところがあります。資料には足尾の鉱毒により生活に困窮した住民の保護と、鉱毒被害の拡大防止の両方を一挙解決する手段として地元の代議士田中正造が天皇直訴して、遊水池を作らせたといった事がかかれているのです。
これは、とんでもない勘違いでして、田中正造は、後半の人生の全てを投げ出して遊水池計画に反対し、その白紙撤回を死の床につくまで求め続けていたのですから、北海道に移住した栃木地区の人の子孫が、こんな勘違いを信じているとしたら絶望的に浮かばれませんね。
遊水池計画によって潰された谷中村の村民は、だまされて移住したのであって、鉱毒被害にあいながらもなお谷中村からは離れたくないと考えていました。みずから望んで北海道に希望を感じて移住した人はほとんどいなかったのです。バラ色の生活が待っているかのように住民をだまして、追い立てたのは行政そのものでした。たぶん北海道移住後の住民が、子孫にその事を言い聞かせなかったのは、だまされた恥ずかしさと、開拓にまがりなりにも成功した自負とが交錯したからではないでしょうか。
実際は、谷中村住民の北海道移住は、全く無駄な事でした。渡良瀬遊水池は、田中正造が最初から主張していた通り、その後現代にいたるまで百年間ただの一度も「遊水池」として機能した事はありません。行政は当初からそのことを承知であった事は、その後の研究でわかっております。これは明らかに足尾の古河市兵衛と行政とが謀議してきめた、流域住民の憎悪の目を足尾の銅山から谷中村村民にすりかえるための悪質な計画だったのです。行政は古河市兵衛の個人財産を守るためだけにひとつの村を廃虚にかえたのです。
それに「栃木のあゆみ」には事件が遊水池計画により解決したかのように書かれてありました。これも、とんでもない誤解で、谷中村の強制移住が足尾の鉱毒問題に何かしらの影響をあたえた事は全くありません。わずかにあるとすれば、「あまり強い反対運動をしていると、ああなる」という恐怖心を農民に与えて反対運動を鎮静化させたくらいのものでしょうか。あくまでも古河市兵衛を守る側にたつ行政は、被害の多かった地域を中心にたくさんの堤防を築きました。これにより、とりあえずの直接的被害は激減しましたので、流域農民はそれで納得したというのが実状です。
つまり残念ながら、足尾の鉱毒問題と谷中村遊水池計画とは、古河市兵衛というキーワードはあるものの、現実には全く関係の無い別の事件だったのです。北海道の栃木地区の開拓民は、本当の事を何も知る事無く塗炭の苦しみのなかで開拓事業に参加していったのでした。

●佐呂間町栃木地区●

前述の事が気になって、実はその後、サロマ湖から内陸に行った所にある栃木という地名の場所に行ってきました。
ここは、足尾鉱毒で苦しむ渡良瀬川流域農民の不満を鉱毒問題から治水問題にすり替えようと計画した国が下流の谷中村という大きな村ひとつを全て潰して遊水池を作った際に、村民をわずかな金と北海道開拓の偽りの夢を吹き込み移住させた場所にあたります。多くの農民が困難な開拓事業に挫折していった中を、残った人々で長い年月をかけて築きあげた村でした。
訪れてみると、いまは密林の面影もなく、広大で肥沃な農地に、酪農家が点在し、豊かな自然の中に静かなたたずまいの村でした。ちょうど村の中心付近には栃木神社というやしろがあり、案内を読むと、栃木の二荒山(ふたあらさん)から勧進されたいわれが書かれてありました。
風化した歴史は、地元の人にも旧谷中村当時の歴史に認識間違いをおこさせ、考えさせるものがありました。あれほど谷中村の人々の為に命を投げ出して戦った田中正造は、ここでは、谷中村の遊水池計画を立案して推進した人物として誤った評価をされていました。
田中正造の公害の原点闘争から百年ということは、実はこの村にとっては開拓百年記念という輝かしい幕開けの年として理解されているわけですからしかたのない事なのでしょうね。(この文章は、時間が経過して、経年上の矛盾が発生していたので加筆訂正しました)

 

 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
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