世良田氏の謎解きに挑戦(7)

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世良田氏を語るには、鎌倉期、南北朝期、室町戦国期、江戸期以降とそれぞれ分類して語らねばならないと思います。そこでまずは鎌倉期の世良田氏からです。

《世良田義季》

では、世良田氏開祖と言われている世良田義季とは、どのような人物だったのでしょうか。生没ともに不詳の世良田義季が世良田地区を中心とした一帯を領有し地頭職としてそのいずれかに居住していた事は、領内寺院への寄進記録などで証明されています。得川郷の長楽寺を世良田地頭が創建したとする『長楽寺住持院豪置文』がある事から、世良田義季が得川郷も勢力範囲に持っていた事が想像できますが得川地頭でなく、あくまでも世良田地頭が建立した事になっており、これからしても世良田義季を得川義季と表記するのはだいぶ無理があるように感じます。
世良田義季の頃世良田郷は栄え、新田領の中でも、最も裕福な穀倉地となりました。世良田義季は平穏な生涯を終え、現在世良田東照宮の隣にある長楽寺境内の前方後円墳の、なぜか頂上に得川義季の墓と呼ばれる物があり私も何度か見ましたが、階段を上がって古墳の上に登るといくつかの石塔が並べてあります。

《世良田頼氏》

父親の偉大な遺産を背景に栄えたのは、世良田頼氏でした。その頃、惣領家の新田政義は京都大番役の途中に無届け出家し、鎌倉幕府より惣領件を剥奪され、新田惣領は同族の世良田氏が継ぎました。(実際には岩松氏と世良田氏両家に分轄されました)この時の世良田領主が世良田義季であったか世良田頼氏であったかは不明ですが、少なくとも世良田頼氏が引き継いだ事は確かです。鎌倉に出仕した世良田頼氏は執権北条経時に引き立てられ将軍頼嗣の『近習詰番』や宮中の『ひさし番』、幕府の『昼番衆』『蹴鞠奉行』などを歴任し、ついには『重役の間御免』というかなり高い地位に登りつめました。もっとも、この『重役の間御免』については『ふじた史観』では、異論があるのです。つまり地位がないのに、その高度な教養と遊芸にひいでた才能を買われて、諸将をさしおいて執権に直接語りかける特権を与えられた者で、いわば、「道化」のような存在だったのではないかと。
執権のお気に入りだったはずの世良田頼氏は、1272年突如佐渡流罪となります。この年北条氏の内紛がおこり、執権職の相続を願う執権の兄で庶子のために執権を相続できなかった北条時輔が執権職奪取を画策したいわゆる『時輔の乱』に発展しました。たぶん世良田頼氏は、この北条内紛に巻き込まれ、連座して遠島になったのだろうと想像できますが、この時を最後に世良田頼氏は記録から全く消え去ります。

《世良田教氏》

吾妻鏡には、世良田教氏と思われる人物として『新田参河守』という人物が登場します。これは父親が『新田参河前司』と呼ばれていたから、たぶん同じ参河という事で、子供の世良田教氏であろうという、またまた乱暴な論理です。世良田教氏については郷里での寺院への寄進記録などにわずかに見えるだけで、父親の失脚以降、中央で活躍する事は全くありませんでした。

《世良田家時》

世良田氏の四代目は、家時といいました。この世良田家時は、なぜか謎の早世してしまいます。謎の早世した「家時」といえば、足利家時がおり、この不思議な符合が奇異に感じます。このあたりは足利氏の謎解きを参考にして下さい。
世良田家時は世良田三河孫太郎を名乗ったという記録がありますが、後世の物である可能性が高く真偽は不明です。

 家時の、のちに、いよいよ動乱の鎌倉末期にさしかかります。そのお話は次回。
 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
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