世良田氏の謎解きに挑戦(6)

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世良田氏に関する確実な資料は数が少ない事は、これまでのお話でだいたいご理解いただけたと思いますが、その中で徳川氏はじめ、史家が頼った資料である吾妻鏡の記載は、おおよそ一般的に次のように理解され落ち着いております。

得川義季 =徳河三郎義秀
世良田頼氏=新田参河前司頼氏
世良田教氏=参河次郎

この三代のうち『得川義季=徳河三郎義秀』は誤りではないかとする話をこれまでご紹介しました。これまでも同様の疑問を呈した研究家はたくさんいたようです。ここでもその説を支持し、得川義季ではなく、ごく自然な表現として世良田義季と表現しています。しかし徳河三郎義秀なる人物は得川郷を本拠地とした新田一族のひとりであったろうという点そのものを否定する説はないようです。しかし実際にはそれを明言している資料は全く存在しない事はこれまでに述べてきた通りです。整理して述べるならば、徳河氏と世良田氏の関係にかなり疑問があるばかりでなく徳河氏と新田氏の関係でさえ疑問がある。そしてそれはすなわち徳河と三河との関係に疑問がある、という結論に続くのです。

《かめおう丸》

世良田義季の子に得川郷を領有していたらしい得川頼有の話はこれまでにご紹介しました。しかし、この頼有の得川姓も、当時の記録ではなく、得川郷を領有していたのなら得川姓だったろうというかなり乱暴な推論によります。従って正しくはこれも世良田頼有と呼ぶべきなのかもしれません。この得川頼有がたしかに得川郷を領有していた証拠は『得川頼有譲状』の中にあります。

得川頼有譲状

ゆつりわたす所りやうの事
     かめわう丸所
一 かうつけの国新田庄とくかわのこう、
  よこせのこう、下えたのむら
一 たちまの国 上三□庄東方西方
一 さかみの国 永用のかう
右新田庄内の所りやうらハ重代さうてんのしりやう也
上三江庄ならひに永用のかうハくんこうの所なり
しかるにせんねんのころ女子源氏ニゆつりたひて
あんとの御下文を申しあたえ候こゝにまこかめわう丸ハ
かの源氏のしそくたるあひたこれをやうしとしてちやくしにたて
御下文並てつきのもんそうをあひそへてやうたいをかきて
かめわう丸にゆつりわたすところ也
たゝしきやうと大ハんハ大事の御公事たるによりて
ふけんにしたかひてかめわう丸かはゝ並こけふんにもは
うれすにまかせて所のようとうをはいふんすへし
仍子々孫々にいたるまてさうゐなくりやうちすへき状
文永五年五月三十日 散位源頼有(花押)

かめおう丸とは、得川頼有の娘が嫁いだ先で産んだ孫です。そのかめおう丸に得川郷、横瀬郷、下江田村、但馬国の領地、相模国の領地を譲るという物です。重代相伝の私領と表現されたその得川頼有からかめおう丸に継がれた領地に得川郷が含まれていたことが、頼有が得川姓であったろうと推論する根拠の大半でした。しかし得川郷が領地のひとつであった事が、得川氏の存在を証明できるものと考えるのは冒険すぎると私は考えました。世良田分家の得川頼有は、たしかに得川郷を領有しました。しかし得川氏は、その後も一切の記録に登場しません。後の研究による得川氏とは、架空の一族だったのではないでしょうか。
世良田氏の話が先送りになってしまいました。いよいよ次回は世良田氏の秘密に近づきます。
 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
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