【風雲児新田義貞16】

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終章
足利幕府:
新田義貞の戦死の報を受けて、足利尊氏は、その翌月、みずから擁立した光明天皇より宿願の征夷大将軍の位を受け、武家の頭領を正式に宣言したのでした。足利尊氏にとっては、その最大の敵は後醍醐ではなく、新田義貞だったのです。そのため、後醍醐が投降し、都を平定して実質的将軍となったのにもかかわらず、新田義貞の首を取るまでは決して征夷大将軍を名乗ることはしなかったのです。吉野の後醍醐の動きへの不安から、幕府を鎌倉へ置くことを断念した足利尊氏は京都で政治を司ることを決め、高師直を執事に、弟足利直義を鎌倉の関東管領に指名し、ここに新しい幕府のスタートを切ったのです。
吉野の先帝:
さて、吉野の山中にて各地に号令する後醍醐の意気は、相変わらずさかんでしたが、思えば、後醍醐のもと、建武の親政に協力し活躍した武将も公家も、いまはほとんど他界していました。楠木正成、千種忠顕、名和長年、そして今、新田義貞、北畠顕家が倒れ、すでに足利尊氏と互角に戦える者は、いなくなっていました。
1339年8月16日。さしもの後醍醐も、無念のうちに吉野の山中で崩御しました。享年51歳。悲報に接し、新田義貞の弟脇屋義助は力つきたかのように翌年転戦先の伊予であえなく病死してしまいました。
あわれな皇子達:
数奇な運命に持て遊ばれた後醍醐の皇子たちの最期は、いずれも哀れなものでした。後醍醐が隠岐へ流されるとともに、越中へ流された恒性皇子は北条氏により殺害。15歳でした。隠岐の後醍醐に代わり鎌倉幕府打倒を目指し立ち上がった護良皇子は、なんと父後醍醐に裏切られ宿敵足利尊氏にわたされ、鎌倉にて足利直義により殺害。27歳でした。新田義貞とともに北陸へ落ち、金ヶ崎城にて自害した尊良(たかよし)皇子は26歳。後醍醐の寵愛のもと、権力を欲しいままにした阿野廉子の三皇子のうち、成良(しげよし)皇子は、足利尊氏謀反のとき鎌倉にあり、のちに光明天皇の皇子にまで成ったものの、1338年、足利直義により京にて毒殺。12歳でした。また恒良(つねよし)皇子は、新田義貞とともに北陸へ落ちたものの捕まり、成良皇子とともに毒殺。14歳でした。そのほかの皇子も多くは戦死または各地を流浪の果てに、何処にてか消息も不確かなままに消えていました。(護良親王にならい、他の親王の「良」の字も「よし」と読んでおります)
南北朝の動乱:
阿野廉子の最後に残った皇子の義良(のりよし)皇子は、吉野にて12歳にて即位しました。のちの世で正統な天皇であると追認された後村上天皇の誕生でした。南朝の、あくまでも足利尊氏擁立のかいらい天子は認めないという強い決意の表明でありました。南朝には、成人した楠木正成の嫡男正行がおり、父正成に劣らぬ知才で、ふたたび幕府にいどみます。新たな動乱の始まりでした。
著作:藤田敏夫(禁転載)
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尊氏足利尊氏